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劇的伝統と劇的因襲
げきてきでんとうとげきてきいんしゅう
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集20」 岩波書店
1990(平成2)年3月8日
初出「女性 第九巻第六号」1926(大正15)年6月1日
入力者tatsuki
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2006-03-28 / 2014-09-18
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 批評家がいろいろの立場から作品の価値を論じることは自由であるが、文芸の種目(ジャンル)に関して、聊かも定見のないことを暴露するに至つては、甚だ心細い。
 今日文芸批評の筆を取る人々のうちで、自分には詩の批評はできないと公言し、または、無暗にさうきめてかかつてゐる人が多いやうである。そして、世間は勿論、文壇のうちでさへ、誰もそれを不思議だと云はず、「詩が解る」といふことは、「文学が解る」といふことのうちにはひるのだとは信じてゐないやうである。
 従つて戯曲なども同様に、所謂批評家の批評を受けずにすむかといへば、さうではなく往々「小説が解れ」ば「戯曲も解る」ものと思ひ込んでゐるらしい批評家のとんでもない評価を受けるのである。この理窟がどうも僕には解らない。

 僕はここで、戯曲批評論をしようとしてはゐない。ただ、所謂、劇評家(クリチック・ドラマチック)をして、遂に戯曲評を断念せしめつつある現在の演劇界を見る時、われわれの如き、批評を専門としないものでも、少しは戯曲について語ることを許されるであらうと思ふのである。

 僕は第一に、毎月各種の雑誌に発表される戯曲が、如何に舞台的伝統を無視したものであるか、しかも、たまたま、その点でパスするものがあるとすれば、それはまた、如何に舞台的因襲に囚はれたものであるか、この二つの傾向について、若い演劇愛好者の注意を喚起したいのである。

 それならば、舞台的伝統とは何か。つまり、劇的伝統である。これは要するに、演劇が今日まで、それのみによつて、芸術としての存在を保ち続けて来た本質的の要素で、所謂「舞台の生命」を醸し出す表現の魅力である。
 これに反して、舞台的因襲とは、即ち、劇的因襲で、演劇が、それによつて、今日まで娯楽としての存在を主張して来た従属的の要素である。所謂「舞台の約束」と自称する、安易な手順にすぎないのである。
 なるほど、従来のドラマツルギイは、たしかに、この従属的の要素について論じすぎてゐる観がある。しかし、それは演劇が、他の姉妹芸術の如く、早くから俗衆に見切りをつけなかつたことに基因する。
 最近、「新潮」誌上や「都」紙上で、森田草平氏が論じてをられることは、従来のドラマツルギイから一歩も出てゐないものであり、さういふ観方をしてゐるものがまだ多いから、日本の新しい芝居はなかなか生れて来ない。

 新しい戯曲は、その思想的内容もさることながら、また、主題の文学的価値もさることながら、第一に――と云つては語弊もあらうが――少くとも、新しい戯曲なるが故に、どこか旧い戯曲と異る一点を、その様式上の進化に求めたいと思ふ。その進化とは、いふまでもなく、本質に即した進化でなければならない。作家も、批評家も、俳優も、舞台監督も、劇場経営者も(僕は公平であることに努める)そして、殊に一般観客も、新しい戯曲の標準をここにお…

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