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現代日本の演劇
げんだいにほんのえんげき
副題(コンテンポラリイ・ジャパン所載)
(コンテンポラリイ・ジャパンしょさい)
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集23」 岩波書店
1990(平成2)年12月7日
初出「劇作 第五巻第十号」1936(昭和11)年10月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-11-22 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

       一

 封建的、鎖国的な旧日本の文化は、所謂「能」と「歌舞伎」とを今日に残した。この二つの珍奇な演劇種目は、それぞれ長い伝統の上に築かれた特殊の美を誇つてをり、一つは、貴族的、武士的な趣味を、一つは民衆的、市井的な趣味を代表し、現在に於ても、熱心な支持者をもつてゐる。
 凡そ世界の舞台芸術を通じて、人間の創造的努力が、これほど犠牲的に、ある完成のために捧げられ、「常識美」の極致を徐々に、無意識に築き上げた例はないのであつて、その点、民族的なもの或は時代的なものと、個人的なもの或は天才的なものとを、その中で区別することは甚だ困難なのである。
 旧日本文化の特色は、道徳的、宗教的ではあつたが、哲学的でも科学的でもなかつた。西洋文明の移入は、恐らく芸術の分野に於て、最も相容れない二つの潮流を形づくる結果になつた。音楽、美術、舞踊、そして文学、何れも、さうである。
 過去五十年の歴史は、表面的に日本を近代化したやうに見えるが、国民生活の根柢には、まだまだ多くの封建的なもの、意識的に伝統を固執する精神が氾濫してゐる。殊に、指導階級は、その教養に於て、常に鎖国的であつた。国際的であることにある種の危惧を懐いてゐるのである。
 かかる情勢に於て、近代芸術が伸び伸びと育つ筈はない。若いヂェネレエションのなかにさへ、三百年前の感情が眠つてゐるのである。
 しかしながら、一方では、時代の要求が様々な形で敏感な精神をゆすぶつてゐることも事実だ。芸術の革新運動は、それゆゑ、先駆的であると同時に啓蒙的な色彩を帯びる。美術、音楽、文学、何れも、欧米のそれの紹介から始まつて、そのコピイ、模倣、次いで、咀嚼の時代にはひる。現代日本の生活は、公平にみて、まだ「近代芸術」を呼吸してゐないのである。独自な魂を盛るべき普遍にして至高な形式を発見し得ないのである。
 そのうちで、現代日本が、やや自負を以て、われわれの芸術と称し得べきものは、恐らく「短篇小説」であらう。殊に「心境小説」と呼ばれる作家の内生活の記録は、その深さ、その鋭さ、その渋さに於て、正に世界文学の如何なる傑作にも比肩すべきものをもつてゐる。
 嘗て、否、今もなほ、美術家は巴里に、音楽家は維納に遊び、その技を練ることができる。大多数の作家は、外国語の散文を読みこなす力をもつてゐる。ところでわれわれは、欧米の演劇を、如何に紹介し、模倣し、咀嚼したか?
 民衆が演劇を生むといふのは、あらゆる文化の水準が一定の高さに於て平均され、風俗の規準が社会的に統制されてゐることを条件とするのである。現代日本の公衆は、自己の生活の中に、「演劇美」を構成する要素があるかないかをまだ知らずにゐる状態である。真の意味での「近代的舞台表現」なるものは、屡々その道の専門家によつて試みられ、そして失敗した。戯曲は散文でありすぎ、俳優は人形でありすぎ、…

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