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感想
かんそう
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集23」 岩波書店
1990(平成2)年12月7日
初出「月水金 創刊号」1937(昭和12)年4月5日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-12-08 / 2014-09-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 文学といふものを専門的なものと考へる理由は十分にあるが、また、これを専門的なものではないと考へる一面がある筈である。
 専門家にしか興味のないやうな文学と、専門家には興味がないやうな文学(?)とが截然と別れてゐるところに、わが国現代文化の特殊性があるとみて、私は、今日のわれわれの仕事といふものの困難を、つくづく感じるのである。
 個人々々の問題はしばらく措くとして、文学者一般が、世間なるものをどんなに遠いところにおいて眺めてゐるか、世間はまた文学者なるものを、どんなに「変つた存在」として扱つてゐるか、この点、誰でも気がついてゐるやうで、実はそれほど気にしてゐない事実を私は不思議に思ふ。
 今や、文壇といふ特殊国には、世間一般に通用しない風俗習慣があり、言語があるのであつて、これに従ひ、それを重んじなければ、少くとも専門家の資格を欠くことになり、純文学は、これによつて、心境を研ぎすまし、大衆文学はこれによつて、厚化粧を施すのだとすれば、話はますますわからなくなる。
 それでも、私は、純文学と大衆文学とを、こんな風に同じ垣根のうちに住はせるつもりはないのである。純文学は世間を相手とせず、大衆文学は読者本位に作られるものだといふぐらゐの区別は知つてゐるのである。が、ただ、世間といふものは、俗衆ばかりでできてゐないことをも知つてゐるのである。つまり、優れた文学が俗衆に容れられないからといつて、それで世間全体を軽蔑し、敵視することは当らないので、その傾向が遂に、「一般社会に話しかける言葉」を文学者から奪つたといふ観察を私は下してゐる。
 これは、文学者の方にばかり罪があるのではない。「世間」にも罪があるのだが、世間は今文学などを必要と感じてゐない時代であるから、如何とも致し方がない。文学者の方で、それに気がついて、世間の注意をこつちへ向ける工夫をしなければならぬ。勿論、日本といふ国を幾分でも住みいい国にするためである。それには第一、「共通の言葉」を探すことが急務だ。文学者の興味とする興味が、甚しく職業的、孤立的である上に、その云はうとすることが、その「云ひ方」が、どうしても隠語的、暗号的になる。普通の教養で解釈し会得し得る表現によつて、文学は成り立ち得ないであらうか?
 文学者同志でなければ通用しないやうな言葉身振りが、文学そのものをいかに狭くし、時によると、どんなに無力にしてゐるかを、私は幾多の例について語ることができる。
 文学の独自性といふものは、そんな狭苦しいところにあるのではない。詩や小説は、世間の何人がこれを論じてもをかしくない性質のものだ。政治家でも軍人でも実業家でも技師でも、好きな時好きな場所で、文学の話ぐらゐできなくては困るのである。現代の日本には、それをさせない「何か」がある。空隙か、障碍か? 恐らくその両方であらう。
 われ等ひと度、何人かの面…

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