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劇場と観客層
げきじょうとかんきゃくそう
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集22」 岩波書店
1990(平成2)年10月8日
初出「改造 第十五巻第一号」1933(昭和8)年1月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-10-26 / 2014-09-21
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 本誌(「改造」)に時評を書くのは初めてだから、多少今まで云つたことと重複する点もあるが、私が現在、最も痛切に感じてゐることを、ここでも云はして貰ふことにする。
 先づ、私が訊ねたいと思ふのは、本誌の読者で、「現在の芝居」を観に行く人が、どれだけあるかといふことだ。歌舞伎、新派、新劇を通じて、ある程度まで各人の好みがあることはあるだらうが、その何れでも、実際、時には観たいと思ひ、木戸銭を払つて観に行くといふ人があれば、余ほど「特別な事情」からではないかと思ふ。
 歌舞伎の方で、菊五郎を観に行くとか、中車が好きだとかいふのは、まあよろしいとして、例へば何座で何々をやつてゐるから観に行くといふ好事家がゐたらお目にかかりたい。「某新劇団が今度亜米利加作家某の作品を上演するさうだ。その作品はまだ読んでないが、評判になつたものらしいから、どんなものかひとつ観て来てやらう」――そこで、生憎、その晩は雨だ。それでも観に行く元気があつたら、それはただ売りつけられた切符を無駄にしたくないためばかりではないか。
 私は、決して、専門の批評家や、その道の研究者を揶揄する考へは毛頭ない。飽くまでも、「一般の読者」を標準にして云つてゐるのだ。
 さて、なぜこんなことを云ひ出したかといへば、日本に生れ、多少新しい芸術的教養を受け、しかも、演劇といふものを何かの動機で好きになつた人、又は、娯楽の一つとして自分の趣味に適ふ芝居を求めてゐる人があつたら、それは実に不幸な人だといふ前提をしたいからだ。
 幸ひに、今日では娯楽の種類も殖え、芝居でなければならんといふほどの人は殆どあるまいから、この不幸といふ言葉は、直ちにぴんと来ないかもしれない。それは仕方がない。しかし、いま、映画といふもの、野球といふもの、ダンスといふものまでが、不意に「禁止」にでもなつて、わが国から姿を消したら、当分は不幸を嘆ずる人が多からう。一度その味を占めたからだ。ところが、芝居だけは、少くとも、「現代の演劇」に限つて、わが国の人々は、多く、まだその「味」を識らずにゐる。味はせる人も、店もないせゐである。よその国にあるものならなんでもある今日の日本に、「芝居」――勿論時代と共に遷る芝居だけが、なぜないのか。
 試みに仏蘭西に例をとらう。巴里には現在六十余りの芝居小屋があり、そのうち歌劇やレヴュウをやつてゐるものを除き、まづざつと三十の小屋で、芝居といへる芝居をやつてゐる。更に分けると、三つは国立劇場で、古典劇と当代の大家新進中芸術的ではあるが、晦渋でない作家の作品を厳選して上演し、これが一国演劇文化の本流を代表するものと見做されてゐる。また、前衛派と称せられる劇団の本拠となつてゐるものが三つ四つある。ここでは、主として、国立劇場にも迎へられず、従つて一般大衆には難解であり、しかしながら、「明日の演劇」に何物かを与へるとい…

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