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テアトル・コメディイの二喜劇
テアトル・コメディイのにきげき
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集22」 岩波書店
1990(平成2)年10月8日
初出「劇作 第二巻第一号」1933(昭和8)年1月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-11-04 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 金杉惇郎君は、なかなかの理論家で、演劇の実際家としても、一つの勇敢な主張を振り翳し、着々、劇界の地歩を占めつつあることは、私はじめ期待と興味をもつて眺めつつあるのであるが、同君は、先頃、「劇作」誌上に、日本の新劇が面白くないわけは、「歌ふな話せ、踊るな動け」といふ古臭い信条を今だに墨守してゐるからで、これからの新劇は、「話すな歌へ、動くな踊れ」でなければならぬ。さうすれば、きつと面白い舞台が見せられる、といふやうな意味のことを述べてゐた。一つの宣言は、常に、華々しい外貌をもつものである。そして、常に、半面の真理をさへ掴んでゐるものである。しかし、この「勇敢な」宣言に対して、私は、「現在の新劇」を標準とし、断乎として反対するものである。
 現在の新劇が面白くないのは、俳優が、まだ「話す」ことを知らず、「動く」ことを識らないからで、欧羅巴に於ける、かの浪漫末期の演技的病弊――即ち、「歌ひ、踊ること」が、如何に演劇を邪道に導き、その堕落を誘つたかを考へれば、今にして、わが新劇が、これを目指すかの如き誤解を植ゑつけることは、甚だ慎しむべき事柄だ。
 無論、金杉君の意図はそこにあつたのでなく、「巧みに語る」こと、「巧みに動く」ことが、如何に「音楽的」であり、「演劇的」であるかを強調するためであつたに相違ないが、なほさら、先づ、「正しく話し」、「正しく動け」から出発し、現在の新劇を面白くするためには、誰よりも先に、俳優をして、「話す」こと、「動く」ことの修行を積ませなければならぬと思ふ。優れた戯曲ならば、それ自身に、既に、ある「心理的リズム」をもち、そのリズムの完全な把握によつてのみ、舞台は美しい幻象の連続となるのである。これを「歌」と呼び「踊り」と名づけるなら、それは形容であつて、金杉君は、そこまでの論理的準備をされて然るべきだ。
 さて、そこで、十二月の同劇団公演であるが、一つは私の訳になる「我家の平和」、一つは友人岩田豊雄君の名訳「トルアデック」、共に、相当の興味をもつてその二日目を見た。
「我家の平和」は、最初から無理な出し物だと思つたが、果して、不成功。私の予想もしなかつた欠陥が眼について、ただ茫然とするより外はない。金杉――長岡のデュオは、まだこの「生活の味」をこなし切れないことが最大原因でもあらうが、少くとも、あの写実的科白の堆積から滲み出るファンテジイ、日常茶飯のビュルレスクは、「文学的に」誰でもが捕へ得る程度のものである。それを、あの程度まで逸して、どこに、俳優としての面目があらう。私が恐れたのは、ただ、柄の問題だけである。さぞ、青年らしいトリエル、淑やかなヴァランチイヌが出来上ることであらうと思つてゐただけだ。殊に、私が意外に思ふのは、あの脚本のテンポを、何故にああのろのろとしなければならなかつたかといふことだ。不必要で不都合な、つまり見当違ひの「…

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