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巴里の新年
パリのしんねん
作品ID44475
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集22」 岩波書店
1990(平成2)年10月8日
初出「家庭 第三巻第一号」1933(昭和8)年1月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-11-07 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 旅の眼に映じた外国の正月をといふお需めで、一昔前の記憶から探してみたが、其処にはほとんど、「お正月」といふものがない。我々の頭に幼少の頃から浸み込んでゐるお正月、新年、といふものとは、およそかけ離れたものであつた。古い一年が逝き、新しい年が来るといふ事を、我々の祖先が何故こんなに重大事とし華やかな儀式を以つて迎へる様になつたか、その穿鑿は別として、欧米人は、実にあつさりとこれを扱つてゐる。私は丁度四回の新年を巴里で迎へたわけであるが、仏蘭西人の下宿に住み、故国からの留学生とか、大使館関係の人達との交際なども少なかつたので、猶更、その正月はひつそりしたものであつた。最初の年はそれでも、「あ、今時分は弟妹達、雑煮でも祝つてゐるかな」とか、母の得意の煎田作で飯を食べてみたいとか思つたりしたものであるが、次の年からは、そんな感傷も薄らぎ、結句、煩雑な儀礼に縛られないで済む身軽さの気持に、のびのびと己れを浸してゐた。
 それでも大晦日の晩は、レヴエイヨンといつて、みんな大概レストランか何かに出かけ、知人等と食事を供にし、踊つたり、唄つたりで、夜を更かす、つまりそれが外国では、新年を迎へる気持の唯一の現はれと云へよう。その騒ぎも、夜が明ける頃には、何処もすつかり静まつて、街上にも屋内にも、平常と何の変りもない一日が来る。起きて、食堂にでも出て来ると、流石、下宿の女主人が、「お早う」の代りに「お目出度う」と云つてくれる。しかし、それもほんの軽い挨拶で、別に、その言葉から正月を感じさせてくれるやうなものではない。
 カトリック教の国に、「王様の日」といふのがある。これは偶然、日本の「松の内」にあるお祭り日であつて、向ふの人達には、新年とは関りのないものであるが、日本人である私などには、時が時なので、ちよつとその日はお正月らしい気分を味はへるものだつた。それは、聖書にある通り、基督が生れた時、東方の国の博士達が星の占ひで、ベツレヘムに偉い人が生れたと云つたのにより、東方の国の王が、その誕生を祝ひに来た、といふその日を祝ふのである。この日、各家庭では、独身だつたり、遠くから学校の寄宿舎に来てゐる人など、家を持たない人達を招き、煖炉を前にして、カルタや、唄や、隠し芸の披露や、極く呑気に家庭的な娯楽にうち興じる。そして、この日には、食後に必ず特別の菓子が出る。丁度誕生日やクリスマスの時の様な大きいカステラ風の菓子だが、大抵はその家の主婦の手製といふ事になつてゐる。これを、主婦が人数だけに分けて各自に配るのであるが、この中にはたつた一つ王様の人形が入れてあり、それにぶつかつた人は、男なら王様になり、相手の女王を選ぶし、女なら王様を選ぶ権利がある。女王なり、王様なりが決まると、みんなは二人をならべて、口々に「王様お目出度う、女王様お目出たう」と祝詞を述べて囃すのである。この人形をなる…

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