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純粋演劇の問題
じゅんすいえんげきのもんだい
副題――わが新劇壇に寄す――
――わがしんげきだんによす――
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集22」 岩波書店
1990(平成2)年10月8日
初出「新潮 第三十年第二号」1933(昭和8)年2月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-10-29 / 2014-09-21
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

       一

 あらゆる芸術の部門を通じて演劇の理論といふものは、特にこれを実際に「試み」る機会が少く、従つて、その理論に確乎たる根柢を築くのに容易でない事情にある。
 所謂「近代劇運動」の史的考察が、この意味で絶えずその中心を見失はれようとする傾きがあることも、われわれは既に気づいてゐるのである。
 十九世紀後半に於ける諸芸術の「純化運動」に、演劇も後れ馳せながら参加した事実は、世人も等しく認めてゐることと思ふが、この「手入れ」は、演劇といふ庭に限り、それがあまりに荒れ果ててゐたためと、また、あまりに木石の類が多すぎたために、ほかの庭よりもずつと遅れてしまつた観があり、漸く一と通りの草むしりを終つた程度で、早くも、職人たちは仕事を投げ出してしまつた。
 詩、小説は固より、造形美術、音楽、舞踊、さては、まだ生れて幾らにもならぬ映画の方面でさへ、あらゆる社会層への食ひ込みを目ざす一方、かの「純粋」の名を冠せられる真摯な運動が、今日では、立派に、存在理由をもつてゐるに拘はらず、独り演劇の部門――戯曲をも含めて――に於てのみこの運動が中途半端のまま葬り去られようとしてゐる現象は、どうしたものであらう。
 実際、私の知る範囲では、「演劇の純化」を標榜するフランス自由劇場以後の諸運動乃至その指導者も、未だ嘗て、「純粋演劇」といふ問題には触れてゐないやうである。僅かに、ゴオヅン・クレイグが、その理想家的感傷をもつて、「演劇の独立」を叫んではゐるが、その実、「演劇をして演劇のみの演劇たらしめる」主張は、単に、舞台より「文学」を排除するといふ空漠たる目的のために、却つて、演劇の生命を稀薄にし、而も実際は、常に、優れた文学的作品のみに頼るといふ自家撞着に陥つたことからみても、この理論は最早、空論に終らうとしてゐるのである。
 過去半世紀に至つて、「演劇の独立」は、各方面から、いろいろの分野に於て叫ばれたことは事実である。先づ第一に、商業主義よりの独立である。第二に、職業的因襲よりの独立である。第三に、官学的伝統よりの独立である。第四に、文学的レトリックからの独立である。その間、反動として、素人劇が生れ、詩人劇が生れ、美術劇が生れ、電気劇、機械劇などまでが生れようとしたが、結局、舞台はといふよりも寧ろ演出家と俳優は、必然的に、戯曲、即ち文学の指向する道を知らず識らず歩まされて、今日に至つてゐる。彼等は、しかもなほ、口を揃へて、「新しき戯曲出でよ」と云ふのである。
 私は、彼等が何を求めてゐるかを知らないが、少くとも、「新劇運動」の一員を以て任ずる彼等が、一攫千金を夢みてゐるとは信じられないし、「過去に在つた」ものの複製を探してゐるとも考へないから、只単に「変つたもの」「新しいもの」を追ひ求めるスノブの群は別として、他の芸術の部門に於ける如く、「純粋なもの」への欲求が、何等…

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