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現代大衆劇は斯くして生れる
げんだいたいしゅうげきはかくしてうまれる
副題中村正常君に答ふ
なかむらまさつねくんにこたう
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集22」 岩波書店
1990(平成2)年10月8日
初出「読売新聞」1933(昭和8)年2月22日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-10-26 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 新しき「新派」――現代大衆劇――がなぜ起らないかといへば、その第一の理由は、さういふものが現在の日本に欠けてゐることを、劇壇の人々は嘗て問題にせず、大衆も亦さういふ演劇への要求を示さずにゐるからでせう。
 実際、今日までの新劇は、一面、さういふ方向をとつて差支なかつたのですが、新劇の当事者は、常々殆ど西洋の「非大衆劇」――言ひ換へれば「前衛派」の運動を追つてゐたので、直接、一般観客の観劇慾をたんのうさせ、更にまた、それを刺激するやうな「舞台的魅力」を等閑視し、さういふものを何か不純ででもあるやうに考へてゐたらしいのです。
 ただ、若干の人々は、それほど清教徒的でなく、いはば観客本位の演劇に志しはしましたが、その時はもう、所謂「新劇的」な色彩から脱して、不思議に「旧劇的、新派的」な調子へ落ち込んで行くのです。それはその筈でせう。「新劇」といふものが、俳優の演技方面で、少しも根拠のある研究が行はれなかつたからです。それは、お手本がないからです。
 さういふ情勢のうちで、一方、旧劇や新派の俳優に「現代劇」を演らせるといふ矛盾も生じ、旧劇や新派の俳優に演じられるやうな「変態現代戯曲」が、必要に応じ、また、自然の勢ひで作り出されてゐる。
 劇作家は、なんと云つても、その時代の俳優に応じた脚本しか書けないのです。現在の舞台など眼中にないと豪語する戯曲家でも、なるほど、内容や形式のある部分では「革命的、高踏的」であるかもしれませんが、その戯曲の戯曲たる本質的生命に於ては、やはり、その時代の俳優の表現能力を遥かに凌駕するといふことは不可能であります。
 そこで実際問題にはひりますが、それなら、新しい劇術をもつてする現代大衆劇は、どういふ風にしたら生れるかといへば、初めからさういふところへ目標をおいた劇団が、差当り、西洋劇の伝統から俳優術を学び取り、これを日本人の生活表現に適用して、一種自由な、同時に合理的な演技精神を体得し、更に、上演目録の選定には、当分、これも外国の「芝居らしい芝居」を十分日本化して翻案し、この場合、日本化するために「新派調」によることを避け、翻案なるがゆゑに、「筋」だけを利用するのでなく、この点飽くまでも、原作の演劇的リズムを生かして、「芝居の新しい面白さ」を更めて大衆に会得させるといふ意気組みでやるのです。それを続けてゐるうちに、きつと、日本にもそれを模倣した乃至は、それから暗示を得た「面白い大衆現代戯曲」が現はれ、それが興行価値をもつとなれば、先づ「旧劇や新派」と対立して、立派に商業劇場の舞台を占領することになるでせう。それから先は俳優の腕次第です。その方面で、天才が現はれれば、これに越したことはありません。
 さて、ほんたうの「新劇運動」――つまり、芸術としての演劇純化運動は、どうしてもそれから後でなければ存在理由がないやうです。
 中村君なども…

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