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コクトオの『声』その他を聴く
コクトオの『こえ』そのたをきく
作品ID44484
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集22」 岩波書店
1990(平成2)年10月8日
初出「劇作 第二巻第五号」1933(昭和8)年5月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-10-26 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 最近、仏蘭西版の新しい舞台のレコオドを幾枚か聴く機会を与へられた。
 コクトオの「声」はベルト・ボヴィイといふ女優、ミルボオの「事業と事業」を例のフェロオヂイ、ラシイヌの「アンドロマアク」を名悲劇女優バルテといふ風に、僕の耳と心は、再び、十年前の巴里へ舞ひ戻つた次第だが、僕は今ここで、この晩の楽しく、且つ、胸を打たれた数刻の印象を物語らうとするのではない。
 何よりも先に云ひたいことは、僕が嘗て仏蘭西の芝居を観、俳優の演技を通じて、戯曲の立体化――殊に、書かれた白の肉声化といふものにある標準を与へられ、爾来、戯曲を読むたびに、舞台の聴覚的幻象がほぼそれに近く浮ぶといふ自信を得たつもりでゐたのであるが、十年を経た今日、読んで間のない戯曲、例へば、コクトオの「声」や、パニョオルの「マリウス」などが、俳優によつて、かくの如く肉声化されようとは全く思ひ及ばなかつたといふことだ。一口に云へば、読んだ時より、数層倍面白くなつてゐるので、僕は愕き、面食ひ、自分を疑ひはじめた。しかし、なるほど、心を落ちつけて考へてみると、十年前に通ひつめた仏蘭西の舞台が、僕を惹きつけ、つかみ、揺すぶつたのは、実にこれなのだ。現に日本の舞台を観て、仏蘭西のそれとの距りをはつきり感じ、絶えずそのレベルを仰望しながら、さて、年月を経るに従ひ、総ての印象記憶がさうである如く、僕の舞台的印象も亦生気と密度を失ひ、一種の「捉へ難き昔の面影」となり終つてゐたに違ひないのである。今、久々で、かのベルト嬢の、フェロオヂイ翁の、そしてかのララ夫人の声と調子が「生なましく」この耳に響いて来るに及んで、総ては急に蘇つた。これでこそ、語られる言葉だ、俳優らしき俳優だと感じさせ、これでこそ、作者も戯曲を書く張合があり、また、これでこそ、芝居は衰へず、劇場は兎も角も芸術的使命を果してゐるのだと、今更ながら、仏蘭西俳優の演技が到達したレベルに嫉妬をさへ感じたのである。そして、同時に、僕自身、乏しき才能をもつて劇作を続ける以上、せめて、自分の書いたもの、人の書いたものが、この程度に肉声化さるべきものであることを、いつまでも念頭に刻み込んでおかなければ、結局、目標を見失ふことになるだらうと、やや空おそろしい気がして来た。
 が、それは、実際、自分だけの問題ではなくて、日本の新劇全体に関する、痛切な問題であるかもしれない。殊に、俳優諸君は、この目標に対して、今はつきり、眼を据ゑるべき時機だ。今までの新劇は、いはば僕等の幻象にやつと浮ぶ程度の舞台を見せてゐたのである。俳優の立場からは、そんなことでは駄目なのである。それで芝居が面白くならう筈はない。舞台が独立した魅力を発揮し得る道理はないのである。
 最後に、ララ夫人が、「森」と題する男女混声の詩的朗誦に於て、甚だ示唆に富む試みを企て、「言葉の交響楽」ともいふべき一新形式を組立…

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