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ラヂオ・ドラマ選者の言葉
ラジオ・ドラマせんじゃのことば
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集22」 岩波書店
1990(平成2)年10月8日
初出「放送 第四巻第七号」1934(昭和9)年4月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-11-13 / 2014-09-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 ラヂオ文学といふ新しい様式について、私は常に興味をもち、なにか原理的なものを発見しようと心掛けてゐるのだが、放送局との関係も、別にそのために特殊な便宜を与へられてゐるわけではないから、なかなか思ふやうに研究もできないでゐる。
 今日まで、ラヂオ・ドラマと称せられてゐる一種の形式も、自分だけの頭では、いろいろな空想が結びついてゐるが、それを実際に試みてみる機会さへ容易に得られないのである。
 私はラヂオ小説乃至ラヂオ物語といふやうなものも考へてゐる。

 ラヂオ風景とは、どこから生れて来た言葉か知らぬが、要するにかういふ名称は、文学の様式的分類から云へば、甚だ根拠のないもののやうに思はれる。単に「スケツチ」風のものだとすれば、創作として別個の扱ひを受ける必要もなく、小説かドラマかの部類に組入れて差支ないやうに思ふ。小説とかドラマとかいふ概念を近代風に解釈すればそれでいいのである。現に今度の応募作品中、はつきりその特殊性を示したものは一つもない。小説でもドラマでもないといふ勝手な「制限」が、却つて、これを「芸術的」に調子の低いものとし、興味索然たらしめることに役立つてゐるのみである。それ故、若しこの形式を独立させるとしたら、やはり「風物詩」の抒情味を生命とするものでなくてはなるまい。

 ラヂオ・ドラマの方はどうかと見ると、これも大体、この新様式に対する認識が不十分であるやうに思ふ。といふ意味は、「耳で聴く」といふ観念が先になつてゐるだけで、「耳を通して眼の仮感に愬へる」といふ最も本質的なラヂオ文学の要素を閑却してゐることである。例へば、対話による描写を主とすることは、一見ラヂオ・ドラマの本質らしく考へられるが、しかし、その対話が、俳優の直接表情によつて生かされるやうな種類のものは、真にラヂオ的とは云へないのであつて、寧ろ対話そのものが、おのづから明確な表情を連想させ、同時に生活の雰囲気を髣髴させるやうに書かれてゐなくてはならないのである。
 もう一つ大切なことは、ラヂオ文学に於ては、舞台劇や映画などと同様、「誘導的」なリズムを生命とするから、眼に見えないためにもどかしさを感じさせ、そのために、幻想を運ぶ心理的「音色」の効果を鈍らせてはならぬのである。語調語勢の波動が、緩急抑揚の技術を滞りなく生かして行かねばならぬ。

 さて、かういふラヂオ文学の特殊技巧以外に、私は、内容的な精神美と作家的な「表現力」を要求する。勿論、放送用としてある程度の普遍性は望ましく、さうかと云つて、大衆向きを標榜する卑俗な趣味は断乎として排斥するものである。
 人情を取扱ふのはよろしいが、安価なセンチメンタリズムでは困るし、社会諷刺結構であるが、ヒステリツクな独りよがりは相手になれぬ。取材の時代的範囲は自由であるが、感覚と思想には何処か新鮮なところがあつてほしい。
 何れにせよ、聴取…

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