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通俗性・大衆性・普遍性
つうぞくせい・たいしゅうせい・ふへんせい
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集22」 岩波書店
1990(平成2)年10月8日
初出「劇作 第三巻第七号」1934(昭和9)年7月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-11-04 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 演劇に限らず、芸術作品の通俗性とか大衆性とかが問題になつてゐる。
 通俗性と大衆性の区別は、もつとはつきりさせねばならぬが、これは簡単に通俗性とは、芸術的教養なき一般俗衆に、安価な興味と感激を強ふる体の要素を盛つたもので、大衆性とはかかる俗衆の意味でなく、階級としての一社会層の意欲並に好尚を目標とし、人間としての素朴にして健やかな感性に愬へ得る単純明朗な芸術的要素を主とするものであるとしておかう。
 ところで、大衆的ならんとして、通俗性に陥ることがある如く、通俗的なるがために屡々陥るところの悲惨は、それが大衆的ならざることであり、同時に、真の意味の普遍性を失ふことである。
 高踏的なるものが普遍性に乏しきことは、自ら求むるところに近いが、最も広い層に愬へようとする意図が明瞭に示されてゐながら、その結果はこれに反するといふ事実に、演劇当事者は注意すべきである。
 商業劇場のことは我れ関せず、私は当今の新劇が、観客層の開拓を心がけ、早くも職業的ならんとして、意識的に通俗性を目指す傾向を憂ふるものである。無論通俗的になりきれば、それは新劇ではないのであるが、若しも、芸術家を以て任ずるものなら、何等かの意味に於て、通俗性から救はれてゐなければならぬと思ふ。
 今日までの新劇は、脚本の選択に於て、演技の不自然さに於て、たしかに観客の範囲を狭めて来た。しかし、その範囲を広めることは、先づ舞台に普遍性を求めることからはじめなければならぬ。大衆性も結構であるが、日本の大衆は、現在、「芸術」を求めてをらぬし、また求めるやうな気運も動いてゐないからしかたがない。
 芸術的に如何に高級なものでも、普遍性さへもたせれば、十分、現在の新劇運動は支持者を得る自信を私はもつてゐる。
 それでは、普遍性とは何かといへば、必ずしも「大衆」とは呼び得ないが、少くとも、美を感じ得る能力を有する普通一般の人士であつて、演劇には「新しさの見本」よりも、「ほんたうに活きた舞台」を求め、文学の先駆的試みや、作家の特殊な心境などに興味はもたぬが、物語の美しさ真実さには胸ををどらし、俳優の経歴は知らぬが、その才能だけは見分けのつく見物を、無条件に惹きつける要素である。
 さて、脚本の普遍性は、作者の教養に求むべく、演技又は俳優の魅力の普遍性は、俳優の教養に求むべきである。
 早い話が、今日までの新劇の舞台は、あまりに「新劇的」であり、「新劇愛好者」向きであり、新劇専門家の「ミソ」が多すぎ、普通の人間では、その芝居のどこが面白いのかわからぬといふ場合が多かつたのである。
 築地小劇場に於て最もその例が甚しく、その余波を受けて「大衆的」と標榜する諸種の新劇団――「新東京」にしろ、美術座にしろ、テアトル・コメディイにしろ、殊に、演劇集団の名に於て試みられた一、二回の興行は、その悪弊を露骨に示してゐた。先日、新宿…

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