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映画の演劇性
えいがのえんげきせい
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集22」 岩波書店
1990(平成2)年10月8日
初出「サンデー毎日 第十四年第二号」1935(昭和10)年1月5日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-10-17 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より




 演劇をどう定義づけるかにもよるが、私の考へる演劇の本質といふものからみれば、現在の発声映画は、その魅力の一半を演劇的なるものに負つてゐるやうに思ふ。
 勿論、本質と本質とを対立させれば、演劇と映画とは正に相犯すことを許さぬ独自の美学をもつてゐる筈であるが、また同時に、物語の幻象化、或は、眼と耳に愬へる心理的感覚的リズムの流れといふ共通の表現手段による点で、少くとも、姉妹芸術中最も相似たるものといふことができよう。
 特に、今日一般に優秀なりと目せられる西洋映画の大部分は、トーキーとしてまだその本質的な純粋性を発揮してゐず、云はゞ、無声映画の初期におけると同様、「舞台的なるもの」の協力を必要とする時代にあるかのやうである。「舞台的なるもの」とは何かといふと、第一に俳優の演技である。聡明で敏感で柔軟性に富む舞台俳優は、当分、映画に於ける、その地位を失ふまいと思はれる。つまり、舞台に立つて真に「人物を活かし」得る俳優は、スクリーンの上でも、ある役に扮して、真にそれを活かす能力を恵まれてゐるわけだからである。
 たゞ、俳優の演技のみならず、舞台とスクリーンとの根本的に異る美的生命は、前者がより多くの制約に従ひ、後者が、比較的自由な条件を与へられてゐるところから来るのであつて、それは、つまり、韻文と散文との相違の如きものである。この「韻文的制約」から生れる舞台美(時とすると舞台臭ともなる)の映画化は、誰でも気がつく通り、甚だ困りものである。
 その意味において、映画はやはり時間芸術といふ一面において戯曲的リズムの法則に従ひ、伝統的制約を脱してゐる点で、小説的自由さを与へられてゐると云つて差支へない。小説及戯曲の映画化に際して、この二面的処理の適不適は最も重要な問題であらうと思ふ。
 但し、こんな面倒な理窟をぬきにしても、映画はまだまだ演劇に手を引かれながら駄々をこねてゐる年齢である。少くとも西洋の演劇と西洋の映画との関係はさうである。日本は常に特殊事情が通用する国だからさうとばかりも行かぬやうである。日本の演劇は、まだ近代写実主義の洗礼を受けてゐない。驚く人もあるだらうが、厳密に云つてさうである。これが、映画を必ずしも妹扱ひにできぬ理由である。あべこべに、最近の日本の新劇は、西洋のトーキーをお手本にして、演劇的リアリズムの勉強をしはじめてゐるくらゐである。無論、結構なことで、さういふことに気がつかないで芝居の修業をしてゐるものがあつたら寧ろ不幸だと私は信じてゐる。



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