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日記について
にっきについて
作品ID44518
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集22」 岩波書店
1990(平成2)年10月8日
初出「大阪朝日新聞」1935(昭和10)年1月12、15、16日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-11-04 / 2014-09-21
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は日記をつけない。なぜつけないかと訊かれると、返事に困るが、どうもつける気がしない。それでも今までに、つけてゐたらよかつたと思ふことは思ふ。すると、結局、私の中に、日記をつけたくてもつけさせない何ものかがあるのか、または、つけないではゐさせないやうな何ものかが欠けてゐるのであらう。
 面白い日記をつけるやうな人物は、みんな一とかどの人物だとも考へられるが、一とかどの人物でなくとも、およそ人の日記といふものは、誰しも好奇心を引かれるものである。世間に発表するつもりで書いた日記と、さうでない、ただ自分のために書いた日記とは、その意味での興味がまるで違ふが、もちろん日記としての特色は、公然人に云へないやうなことが、率直に誌されてゐる点にあるので、秘密といふほどではなくても、そこでは人間が、裸でゐるといふ風なものほど、読むものにとつては有難いのである。
 西洋には、よく、「おれの日記は、死後何十年後でなければ、発表するな」といふやうな遺言をしておく作家がゐるが、これなどは罪なことのやうだが、出たら読まずにはゐられないといふ連中が相当ゐることであらう。
 日記の文学的価値は、自らその外にあるとはいへ、個人の私生活内生活の記録として、生前その著作乃至公の言動からは、窺ひ得なかつたやうな事実が、暴露されることは、二重の意味でセンセイショナルな結果を齎らすに違ひない。第一はその人物の意外な反面を識り、第二にはその人物と周囲との関係に新たな波紋を投げかけることになるからである。
 近代のフランス作家で、私は、ゴンクウルとルナアルの日記を愛読した。両方とも、問題を起した日記である。前者はたしか死後二十年といふ期限つきで発表を許してあつたのだし、後者は死後十五年で出版された。何れもまだ少し早い憾みがあつたとされてゐる。なぜなら、「読ませたくない人間」が当時幾人も生きてゐた。生きてゐる方がわるいともいへるが、第三者が読んではらはらするやうなところを、そこが日記の魅力だなどと、書かれてゐる当人が照れかくしに言つてゐるのを見ると、誠に人生が暗くなるやうである。

 私は何よりも素朴な魂を愛する。裏も表もないといふ生活は、甚だ見事である。日記の第一頁に――一月一日、今日は正月元旦である。昨夜降り積つた雪が、今朝もまだ真白に残つてゐる。東天に向つて初日の出を拝す。心気爽かにして、一年の計ここに成る、と書かれてゐる。次を読むと、――家族五人打揃つて雑煮を祝ふ。母上は七十歳の皺も晴れやかに、妻は三十五歳の丸髷、緑滴らんばかりである。初男は十一歳の春を迎へてますます父たる余の面影を髣髴せしめ、次子は八歳の学齢に達して、妻に劣らぬ悧溌さを示して来た。嗚呼、この幸福、ただ、欠くるは余四十一にして、未だ一銭の貯へなきのみ、とある。
 趣味で日記をつけてゐるといへばそれまでだが、かういふ種類の日記は…

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