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「せりふ」について
「せりふ」について
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集22」 岩波書店
1990(平成2)年10月8日
初出「月刊文章講座 第一巻第三号」1935(昭和10)年5月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-11-16 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より




 舞台に於ける俳優の「白」については、今いろいろ考へてゐることもあるが、戯曲としての「対話」といふやうなことは、もう自分で意識することも厭になつてゐるので、わざわざ理窟をつける気がしない。若し参考になるなら、もう十年ばかり前に私の書いた「我等の劇場」といふ文章を読んで貰へばいゝと思ふ。
 しかし、折角の注文ではあるし、重複するかも知れないが、「劇の文体」といふことで少し述べてみよう。
 戯曲は、昔から、詩と小説とに対して、文学的創作の一種目になつてゐるが、その本質から云つて、無論、「語られる言葉の効果」即ち、書かれた言葉が肉声化された場合の「魅力」を第一に計算しなければならぬ。従つて、同じく対話の形式でも、たゞ、「問答風」に書かれるばかりでは役に立たぬ。六ヶ敷く云へば、文体としては、誘導性のある、韻律に富んだ、耳で聴いてすぐに意味がわかり、意味がわかると同時にある快感を与へるやうな言葉の選択と配列とが必要であつて、そのためには、写実的な対話でも、浪曼的な対話でもそれは勝手であるが、何れにしても、散文のやうに眼で読んで、しかも考へた上ではじめて意味がわかるやうな、つまり、「観念の沈潜」といふことは禁物なのである。
 そこで、「劇的文体」といふものを、散文と対立させる意味で、これを「詩」と「雄弁」とに結びつける考へ方がある。即ち、戯曲の対話は、常に、「詩」と「雄弁」の要素を含み、しかも「小説」に於けるやうに、「生活」の真実性が描かれてゐなければならぬ。
 表面の言語的リズムが、レアリティーの波動に裏づけられてゐるところに戯曲的生命が生じ、舞台的脈搏が感じられるのであつて、この関係は、優れた戯曲を読めばすぐにわかると思ふ。
「せりふ」が生きてゐるといふのはこの関係の見事な現はれである。
 美辞麗句必ずしも戯曲とならず、日常の自然な会話、常に、生命ある劇的文体とならないのは、以上の関係を無視した結果であつて、詩人として、また小説家として立流な才能ある人々でも、一旦戯曲の筆を取ると、思ふやうに「場面」が生きて来ないといふのも、やはり、その秘密を会得しないからである。
 ところで、その秘密はどうして会得できるかと云ふと、何よりも優れた戯曲を、誤りなく読み、傑れた俳優の演ずる舞台を屡[#挿絵]観ることからはじめなければならぬが、平生、「語られる言葉の美」に対して敏感になることが肝腎である。この問題に関しても、私は嘗て、詳しく書いたことがあるから、こゝでは云はない。



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