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劇作を志す若い人々に
げきさくをこころざすわかいひとびとに
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集21」 岩波書店
1990(平成2)年7月9日
初出「若草 第四巻第五号」1928(昭和3)年5月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2007-07-14 / 2016-05-12
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 自ら劇作家と名乗る資格があるかどうかわからないものが、劇作家たるべき道を説くことは甚だ可笑しいと思ひますが、私を一個の劇作家と見立てゝ、かういふ課題を与へた本誌編輯者の、表面的な責任の蔭にかくれ、私は、自分の信ずるところを述べて見ませう。

 一体、「劇作家になる」といふこと、それ自身が問題なのです。
 或る批評家の説によれば、「劇作家は生れながらにして劇作家である」べきださうです。此の点、電気技師や小説家が、修業によつてその道に至り得るのとは、根本に於て違ひがあるやうに思はれます。
 しかし、此の説は、大きなパラドツクスが含まれてゐる。われ/\が、常に天稟の素質の前に頭を下げなければならないなら、腕を拱いて死を待つより外ないのです。
 此の批評家が、何故に、劇作家だけが特に、「生れながら」劇作家でなければならないと主張するか、それは、劇作家だけが、当今、「誰でもなり得る」ものと信じられてゐるらしい風潮を揶揄したものであらうと思はれます。
 ある批評家はまた、劇作に於ける art と m[#挿絵]tier とを区別して、作家の素質を論じてゐます。前者は云ふまでもなく芸術であり、後者は技術です。云ひかへれば、前者は霊感に属し、後者は、「思ひつき」に属すとも云ひませうか。或はまた、前者は先天的才能に負ふところが多く、後者は、職業的熟練に俟つべきものと云へば云へませう。
 なるほど、かういふ風に考へれば、古今の劇作家について、一応その素質を吟味することができます。日本の現代作家についてもまた興味ある批判が加へられることゝ思ひます。
「劇作家は生れながら劇作家でなければならぬ」といふ議論も、結局、技術だけを生命とする劇作家は、真の劇作家とは云へないといふ主張が裏づけられてゐると見てよろしい。
 それならば、ほんとの劇作家が具へてゐなければならないもの――即ち、劇作上の art とは如何なるものか。それはどういふところから生れて来るか。それはどういふ形で作品の中に表はれてゐるか。この難問題を解決して、扨て、諸君はどうすれば、この art を体得し、驚嘆すべき傑作を物することができるか――といふ結論を引出すことが、此の文章の役目だとすれば、私は、聊か心細さを感じます。なぜなら、そんなことはちつともわかつてゐないからです。恐らく、誰もわかつてゐないでせう。
 古来作劇術(ドラマツルギイ)と称する書物が教へるところは、実は、此の art そのものには関係なく、たゞ僅かに、m[#挿絵]tier の一端に触れたものに過ぎません。従つて、ドラマツルギイなるものは、文法書と撰ぶところはない。否、文法は、それでも、例外を認めてゐる。ドラマツルギイは、此の例外をすら挙げてゐないのです。
 凡て、芸術は、例外を作る術であるとも云へるではありませんか。劇作に於ても、その例外の生れるところ…

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