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「悲劇喜劇」の編輯者として
「ひげききげき」のへんしゅうしゃとして
作品ID44552
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集21」 岩波書店
1990(平成2)年7月9日
初出「東京日日新聞」1928(昭和3)年8月21、23日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2007-07-14 / 2016-05-12
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 今日までかういふ種類の雑誌があつたかどうか、いはゆる「公器」としては、あまりに個人本位であり、いはゆる「同人雑誌」としては、あまりに門戸開放に過ぎると思はれる、一雑誌の存在は、当今、少しく時代錯誤の観がないでもないが、流行は必ずしも一世の識者を悉く眩惑し去るものではないと思ふから、私は、好んで自分の立場を守ることにした。
 敢て野心的な言葉を弄するなら、私は、この雑誌によつて、日本の新劇運動に一つの新しい方向を与へようと思つてゐる。
          ×      ×      ×
 シエイクスピイヤの「翻案」とイプセンの「紹介」より出発した日本の新劇史は、少くとも結論に到達してゐる。
 クレイグ、ラインハルトを経て意識構成派にミザンセエヌ(舞台構成)の理論は、徒らに写真師をしてマグネシウムをたかしめたに過ぎない。
 その証拠に、われ/\の周囲は、われ/\の友人は、遂に劇場に足を向けることを断念してゐる。
 かれ等はしかも活動写真だけ観る連中である。音楽会へなら行く連中である。勿論普通以上の読書家である。殊に戯曲全集は幾通りも取つてゐる連中である。
 なぜ芝居を観に行かないか。答へは同じである。曰く「退屈だ」。曰く「観てゐて気の毒になる」。曰く「おれに演らせればもつとうまくやる」。
 なるほど、さうかも知れない。私は、かれ等が呑気さうにわれ/\の仕事をこき卸すのを見て、少しは腹を立てるかといふと、決してさうではなく、却つてうれしくなるのである。なぜなら、かういふ人々こそ、頼母しいわれ/\の味方であるから。
 私は先づ「悲劇喜劇」をかういふ人々に贈らうと思ふ。
          ×      ×      ×
 一方かういふ人達がゐる。芝居でさへあれば、なんでもかまはない。それや、感心したり感心しなかつたりするにはするが、兎に角、芝居を観ないと淋しい。取りわけ新劇の舞台は、多少不満はあつても、常に何か知ら生き生きした興味を与へてくれる。ことに脚本を読んだだけでは味はへない魅力が、思ひがけない興奮となつてわれもまた何事かをなさゞるべからずといふ決心を呼び起す。役者が下手でもその熱心さに打たれ、装置が貧弱でも、百方工夫の跡が見えればよい。芸術は生命の具象である。人間が一生懸命になつてゐるところ、そこには技巧を超越した美の世界がある。
 現在までの新劇運動は、恐らくかういふ観客によつて支持され、育てられ、そして、悲しい哉、いくぶん不具にされて来たのである。
 今日のいはゆる「新劇フアン」なるものに対して、私は毛頭軽侮の情をもつものではないが、たゞわれ/\の「悲劇喜劇」は、その「寛大さ」よりもむしろその「気むづかしさ」に呼びかける甚だ危険な傾向を選んだつもりである。それ以外に、日本の新劇を健全に導く方法はないと信じるからである。

「悲劇喜劇」は純然たる「演劇専…

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