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舞台の笑顔
ぶたいのえがお
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集21」 岩波書店
1990(平成2)年7月9日
初出「悲劇喜劇 創刊号」1928(昭和3)年10月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2007-11-27 / 2016-05-12
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 此の標題は少し曖昧だが、俳優の笑顔を指してゐるのではない。舞台そのものの笑顔を云ふのである。舞台が顰め面をしたり、口角泡を飛ばしたり、めそめそ泣いたり、口を空いてポカンとしてゐたりするのではなく、絶えず――或は少くとも一と晩の半分くらゐは、見物に対し、快い微笑を送る――さういふことを指すのである。
 かういふと、すぐに、それは喜劇をやるのかと問ひ返すものがあるだらう。喜劇固より可なりであるが、喜劇に限らず、一見それとは反対な悲劇の場合にしても、その舞台全体の相貌に、ある Accueillant な表情(一種の愛想よさ)を求むることは、現在の新劇を一層われわれに近ける所以だと思はれる。戯曲そのものは云ふに及ばず、俳優の演技にも、舞台の意匠にも、演出のトーンにも、われわれは、今日、あまりに屡々仏頂面に遭遇する。見物に背中を向けるといふところがある。取りつく島のない形である。少し言葉は悪いが「遠方をようこそ」といふ心持が現はれてゐない。これは誤解を招くかも知れぬ。決して見物の御機嫌を取れといふのではない。そんなことなら、大概の営利劇場では、とつくの昔やつてゐる。或は、もつと華やかに、けばけばしく、アクセントをつけろと云ふのでもない。そんなことは、多くの人気俳優が悉く心得てゐる。僕の言はうとするところは、もうわかつてゐる人もあるだらうが、言葉を換へて云へば、見物に無駄な努力を強ひるなといふことである。見物にもつと寛ろいだ気分を与へよといふことである。
 かういふ注文は幾分趣味から来るのであらうが、今日の新劇の舞台は、一般に、必要以上暗く、必要以上固く、必要以上力み返つてゐるやうに思はれる。
 例へば翻訳劇を日本の舞台で観たものが、一度西洋に行つて、同じ脚本を向うの舞台で観ると、等しく、それが全く別物であるやうな感銘を受けるだらう。どういふ点でさうかと云へば、日本では、概して、普通の人物を厳めしく、愉快な人物を真面目に、くだけた人物を勿体らしく演じる傾向があるからである。甚だしきは、喜劇的人物を、悲劇的に演じることさへあるのである。同様に、舞台の色調も、暗く、渋く、重く、理づめに施されてゐる。
 いつか築地小劇場でやつた「空気饅頭」のやうなものでも、あれは喜劇であるが、露西亜でなら、もつともつと「喜劇的」な調子を高めて演じるに違ひない。日本では、それを茶番だと云ふかも知れない。茶番は笑劇で、フアルスである。フアルスは日本でこそ芸術的演劇の仲間入りはせられないが、西洋では、今日、立派に芸術的存在を主張してゐるものがあるのである。
 同じく、「どん底」のルカといふ人物にしても、モスコオ芸術座あたりでは、モスコオフインの演技は、全く日本のそれと異り、あんな哲学者風な、聖人のやうな、達観したやうな、早く云へば理窟つぽい爺さんにせず、もつと剽軽で図々しく、そのくせ、おせつかい…

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