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これからの戯曲
これからのぎきょく
作品ID44579
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集21」 岩波書店
1990(平成2)年7月9日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2007-12-13 / 2016-05-12
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 文学の一部門たる戯曲が文学の大勢に従はない訳はない。それで「これからの戯曲」といふ問題は「これからの文学」が如何なるものであるかを解決することによつて、自ら明らかになる訳であるが、然し、それだけではまだ十分ではない。何となれば、文学の中でも、小説は小説、抒情詩は抒情詩、戯曲は戯曲で、それぞれ、ジャンル(様式)としての進化を遂げなければならないからである。故に、「これからの戯曲」は「これからの文学」なる一般特質を有つであらうと同時にその特質と並んで、別に一つの特質を示さなければならないことになるのである。
 私は、与へられた問題を、かく狭義に解釈して、「これからの戯曲」が「これまでの戯曲」から、如何なる点で区別さるべきかを述べてみることにする。
 先づ、それがためには、「これまでの戯曲」とはどんなものであるか、それをはつきりさせておかなければならないが、元来、旧いものといひ、新しいものといひ、その区別は批判者の立場によるものであることを注意しなければならない。私は、一方、眼を世界劇壇の大局に注ぎながら、しかもなほ自分の足を、飽くまでも日本現代の戯曲界の上に置くものである。それ故に欧米に於ては、既に「これまでの戯曲」に属するものにも、日本に於ては、十分「これからの戯曲」として認めらるべき様々の傾向があることを主張したいと思ふ。さうかといつて、これまでいろいろな機会に移入された欧米劇界の流行品が、悉く、日本に於ける「これからの戯曲」を暗示するものであるといふ考へ方にも与し難い。
 そこで私は、今日、劇壇及び一般世間に通用してゐる所謂「戯曲」といふものの既成観念に対して「これからの戯曲」が、如何なる新しい道を指示するか、指示しようとしてゐるか、それだけのことを、いろいろの方面からやや具体的に列挙して見る。
 一、「戯曲的」といふ言葉の内容が示す通り、従来、事件乃至心的葛藤の客観的形象を戯曲の本質と見做してゐたのであるが、古来の名戯曲が、よつて以てその名戯曲たる所以を発揮してゐた「美」の本質が、寧ろ、より主観的な、「魂の韻律」そのものにあることを発見して「これからの戯曲」は一層この点を強調する心象のオオケストラシヨンにあらゆる表現の技巧を競ふであらう。その結果「何事かを指し示す」戯曲より、「何ものかを感じさせる」戯曲へと遷つて行くであらう。この意味で、戯曲が次第に小説的になるといふ見方は当たらない。小説的になるといふよりも、寧ろ詩的になるのである。
 公衆は、舞台に「物語」を要求する愚さを覚るであらう。「どうなるか」といふ興味につながれて幕の上るのを待たなくなるであらう。人物の一言一語、一挙一動が醸しだすイマアジュの重畳は恰も音楽の各ノオトが作り出す諧調に似た効果を生じることに気づくであらう。俳優の科白は、単に「筋」を伝へるものではなく、常に、ある「演劇的モメント」…

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