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新聞小説とは
しんぶんしょうせつとは
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集24」 岩波書店
1991(平成3)年3月8日
初出「東京朝日新聞」1940(昭和15)年3月16、17日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-02-14 / 2014-09-21
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

「新聞小説」についての感想を書けといふ注文である。本紙連載の「泉」をやつと書きをへたところなので、それがどういふものであるにもせよ、自分のことを問題にするやうで気がひけるけれども、経験を経験として率直に語つてみよう。
 職業的といふ言葉が当節いろんな意味に使はれてゐるが、私は、「新聞小説」ぐらゐ「職業」といふ意識をもつて書かなければならぬ文章は、ほかにはさうないと思ふ。これは必ずしも「新聞小説」を卑めていふわけではない。そこで「職業」といふ言葉に対する考へ方をまづきめてかゝらねばならぬ。
 第一に、新聞がなぜ現在とりつゝあるやうな形式で小説を連載する必要があるのかといふ点である。
 第二に、新聞の読者で、小説をも毎日欠かさず、或は気が向いた時だけとびとびに読む人々は、いつたい、どういふ要求から、またどんな読み方で、これらの小説を読むのが普通であるかといふ点である。
 以上の二点から「新聞小説」の条件或は制約といふものが生れて来るとみなければならない。
 読者層が階級的にも地方的にも極めて広いといふやうなことを第一の条件とする説もあるやうだが、私は、この説をあんまり信用しない。広いには広いに違ひないけれども、これはもう、厳密には一人の作者にとつてはどうにもならないことで、せいぜい「調子をさげる」などといふ馬鹿な手が考へられるくらゐなものである。
 さて、新聞がなぜ小説などを細かく切つて載せなければならぬかといふ点であるが、この解答は新聞社側にお願ひしたいものである。私はただ想像にすぎぬが、西洋諸国にも例がある通り、これは単に、あまりに現実的な日々の事件の相貌に一脈の空想味を盛り、あまりに険しい活字面の公式的俯瞰のなかに、いくばくのフアミリアルなスタイルを与へようとする意図の現れではないかと思ふ。
 文学とジヤアナリズムとの結びつき方に二様ありとすれば、これは正しくその一つで、作家がその「生活」をのみジヤアナリズムに託する純粋派に対して、「作品」自体をまでその機能に合致させようとする応用派に属するものである。
 私一個の見解をもつてすれば、ある新聞の小説と、同紙面との調和不調和といふことはこゝで相当重要な問題になつて来ると思ふ。作者の撰択が常にいくぶんこの標準で行はれてゐるものと判断はできるけれども、作者の側からすれば、それも亦一の制約であり、時には拘束でさへもある。
 読者はたゞ、今日の分は面白いとか面白くないとかいつて読んでゐればいゝのだが、新聞社の当事者は、検閲などといふことゝは別に、毎日の一回分をはらはらしながら眼を通してゐることだらうと思ふ。それと同様に、作者の立場からは、実を云ふと、自分の書いてゐる間は少くとも、毎日の新聞記事が自分の責任みたいに気になつてしかたがないのである。をかしなものである。
 新聞社が作者に対し、いろんな注文を出すといふ風説が…

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