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『美しい話』まへがき
『うつくしいはなし』まえがき
作品ID44727
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集27」 岩波書店
1991(平成3)年12月9日
初出「美しい話」静話会編、静話会出版部、1946(昭和21)年10月15日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-06-23 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「美しい」ものを「美しい」と感じる心は誰にでもあるはずだが、「ほんたうに美しい」ものと「みかけだけ美しい」ものとの区別がつかなくなつてゐる人はずいぶん多い。それからまた、「美しい」といふことをはきちがへてゐる人、つまり「醜い」部類にはいるやうなものを何時のまにか好きになつてゐて、それが「美しい」のだと思ひこんでゐる人が、これまたなかなか少くないのである。
「ほんたうに美しい」ものを「美しい」と感じることができないのは、人間として非常に不仕合せであるばかりでなく、世の中がさういふ人たちのおかげでだんだん住み心地がわるくなり、さらに、さういふ人たちがのさばつてゐる国は戦争に負けなくても、外国の侮りを受け、精神的には対等の交際ができないことになる。
「美しさ」といふものは、いろいろなものにあり、眼に見えるものばかりでなく、耳に聞える音や声にもそれはある。「自然の美しさ」と云へば問題はないが、「人間の美しさ」となると、肉体の美しさよりも主として精神の美しさを云ふのである。
 さて、われわれ日本人は、これまで「人間の美しさ」についてどういふ風に教へられて来たか? われわれ日本人の精神は、どういふ点でその「美しさ」を誇つてゐたか?
 この反省は非常に大事な反省であるが、いまこゝで直接それに触れる暇はない。しかし、私はたゞ、これまであちこちでもてはやされた日本人好みの「美談」なるものの性質をぎんみしてみたいと思ふ。
 新聞や雑誌が争つてかゝげる「感激美談」や、国民学校の教科書が教材としてあげてゐる「教訓美談」はいづれもといつていゝくらゐ、日本以外の国では「美しい話」として通用しがたいものばかりである。
 どうしてさういふ結果になつたかといへば、これもせんぎをすると長くなるから、ごく簡単に云へば、日本人は、「人間」としての自覚がまだ足りないこと、国家と社会との関係をはつきり呑みこんでゐないことなどから来るのである。
 人と人との関係にしても、われわれ日本人は、どちらかといへば、相手を特別な面でしか見ない傾きがある。従つて、一人の人物をその肩書や、用件や、利用価値を考へながら扱ふ以外に扱ひ方を知らない。自分の態度を省みれば、知り合ひか知り合ひでないか、目上か目下か同輩か、時としては敵か味方かといふことばかりを気にかけてゐることがすぐわかる。
 つまり、どんな間柄でも、まづなにをおいても、「人間同士」の気持を持ちあひ、しかも、お互にそれを自然に現はすといふことが極めて稀なのである。人間のすがたはかうして「真の美しさ」から次第に遠ざかるのである。
 しかしながら、われわれ日本人も、実は、心底からさうなのではない。普通なら、やはりほんたうの気持を、人間同士の尊敬と愛情とを自然に示しあふ方がうれしいのである。
 つまり、「美しいこと」を美しいと感じる素質はあるのである。人間として生れ…

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