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感想
かんそう
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集27」 岩波書店
1991(平成3)年12月9日
初出「スクリーン・ステージ 第十一号」1948(昭和23)年10月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-07-15 / 2014-09-21
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 最近は芝居も映画もあまり見ない。東京をはなれて暮してゐる期間が長いためでもあるが、たまに東京へ出ても、わざわざ切符を買つて観に行く気がしないのである。自分の仕事に直接関係があるのだから、勉強のつもりで新しい芝居ぐらゐはのぞいておくべきだと思ふのだけれども、ついおつくうになつてしまふ。不心得だと云はれゝば一言もないが、それでも、私にしてみると、今のところ、脚本を読みさへしたら、上演の結果はだいたい想像がつくし、第一、劇場といふものが従来以上に私を誘惑しにくゝなつたといふ理由をあげなければならぬ。
 これには別にむづかしい理由なぞはない。元来、私は芝居や映画を見て楽しむといふ趣味はあまりなく、私にとつて、戯曲を書くことの目的と意味とは、まつたく違つたところにあるらしいのである。かういふと不思議に思ふひとがあるかもしれぬが、それはうそでもなんでもない。そのうへ私は、自分の作品が上演されてゐても、そんなに見に行きたいとも思はず、見ればたいがいうんざりするのである。上演の結果が気に入らぬといふよりは、自分の作品そのものが、どうも場違ひのやうにみえ、役者や見物に申しわけないといふ気がしてしかたがない。

 私は芝居の社会といふものが、自分の性に合はぬのではないかと、時々、考へることがある。それなら芝居以外の社会なら性に合ふのかと開き直られては困るが、それも前に云ふとほり、いつたいに芝居の社会といふものは特に私のやうな人間を住はせてくれる余地がないやうにも思へるのである。その証拠に、私は、劇場の空気をあまり好まない。楽屋に出入するのは必要止むを得ぬ時であり、幕間の廊下は殆どつねに私をいらだたせる。さらに、「芝居の玄人」が芝居の話をしてゐるのを聞くほど私には縁遠い感じがすることはないくらゐである。
 私はなるべく一般に通じない「芝居用語」を使はないやうにしてゐる。むしろ、使はうとしても使へないのかも知れない。「かみて、しもて」といふ慣用語さへ、私は自然に使つたことがない。

 水木京太君が死んだ。私とほゞ同時代に、同じく戯曲を書いてゐた仲間である。イプセンの研究家として自他ともに許し、作品は手堅い構成で論理的な筋の運びを特色としてゐたやうである。さういふ特色が、時に却つて、その意図する喜劇的効果を鈍らせ、緻密ではあるが、なにかもうひと息といふものを感じさせた。しかし、その演劇評論は流石は蘊蓄の深さと眼のたしかさを思はせるものであり、つねに私を傾聴せしめた。終戦後、君は自ら主宰する雑誌「劇場」に、是非何か書けといふ手紙を私によこした。「何故に戯曲を書かないか」といふ題まで与へてくれた。私は、同君とは、実はそれほど親交はなく、むしろ一時は、ある事情のため、関係は疎きにすぎるほどになつてゐたが、この同君からの最初の手紙は、丁重で、しかも、好意に満ちたものであつた。私は、その頃、…

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