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いわゆる「反省」は我々を救うか
いわゆる「はんせい」はわれわれをすくうか
作品ID44754
著者岸田 国士
文字遣い新字新仮名
底本 「岸田國士全集27」 岩波書店
1991(平成3)年12月9日
初出「知識人 第二巻第一号」1949(昭和24)年1月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-07-21 / 2014-09-21
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 十四五歳の頃、私は陸軍幼年学校の生徒であつたが、そういう学校へなぜはいつたか、その理由はここでは述べないことにして、とにかく、将来軍人として身を立てる覚悟で、おおむねドイツ式を採り入れたこの学校の寮生活をつづけていたのである。もちろん、中学校程度の学課のほかに、実課(或は術科か)と称せられる軍事的な初歩訓練が行われ、ことに、訓育と呼ばれる日常の生活規律は一般兵営のそれよりは細かく、かつ、厳しく、いくぶん「貴族的」とでも云うべき作法を主にしたものであつた。この訓育の任に当るのは生徒監で、尉官級の云わば先輩、自分らがかつて仕込まれたとおりに後輩を仕込もうという一念以外になにもない、単純律義な指導者であつた。
 それはそうと、私のいた時分には、生徒おのおのに毎日「反省録」というものを書かせることになつていて、一日の行為、想念を通じて、「将校生徒」たるに恥じるところはないかどうかを省み、自己此判を「正直」に記録しなければならないのである。
 かゝる強制が如何なる結果を生むかは、或る種の教育者を除いては、明かに想像し得るに違いない。しかも、肝腎なことは、これを誰に読ませるかと云えば、その単純律義な生徒監にであり、多少物わかりのいゝ兄貴風を吹かす半面、極めて先入見の囚となり易い頭脳の持主であることがわかつていた。かの信者のザンゲを聴聞するカトリック僧の風貌を私は知らぬけれども、わが生徒監の背後には、万能の神の代りに、立身出世の鬼が口をひろげているのである。
 秀才は秀才らしく、鈍根は鈍根らしく、己れの反省の正しく、美しくみえんことを、これ努める風情は、まことにいじらしいものであつた。――今日は代数の時間につい計算に気をとられて姿勢がわるくなつた。一軍の将たらんとするもの、この悪習を一日も早く脱せねばならぬ、という風なのはまだ罪のないところだが、――余は本日、日曜の外出先に於て旧友と会し、たまたま彼が軍人を誹謗する言辞を弄するを聴き、痛憤に堪えず、遂にその頭上に鉄拳を加えたり。想うに、男子侮辱に報ゆるに侮辱を以てするは理の当然なりと雖も、苟も陛下の股肱として、一朝有事の秋、云々という式に、その腕力沙汰の如きを一方で吹聴し、一方で申訳的に「反省」してみせるというやり方が、そう珍らしくはなかつた。
 或る日のこと、それは自習時間といつて、夕食後から寝に就くまで、自習室に籠つてそれぞれ学課の予習復習をしなければならぬ時間であつたが、私の少年の胸にかねがね鬱積していた疑問の爆発する機会が来た。
 もともとこの自習時間は、いわゆる勉強家にとつては大事な時間、怠けものにとつては厄介な時間であつた。なぜかと云えば、何時なんどき当直の生徒監が見廻りに来るかわからず、若し、その時、ちやんと「自習」をせず、無駄口を利いたり、居眠りをしたり、ストーヴにあたつたりしているのをみつかると、…

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