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俳優と現代人の生活(対話Ⅴ)
はいゆうとげんだいじんのせいかつ(たいわご)
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「岸田國士全集28」 岩波書店
1992(平成4)年6月17日
初出「悲劇喜劇 第四巻第四号(四・五月号)」1950(昭和25)年5月1日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2010-11-06 / 2014-09-21
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 A(編集者) 先月、日本の俳優は、芝居するという目先のことにとらわれすぎて、演技にフクラミがない、というようなお話がありましたが、これはやはり歌舞伎なんかのやり方と関係があるでしようか……。
 岸田 それはなくはないと思いますがね、でもあんまりないと思う。
 A 歌舞伎の演技には、特殊の造型法みたいなものがあつて、演技者は中心点だけを非常にはつきりと押し出して来ますね。
 岸田 そりや歌舞伎の役者が新劇をやるとそういう事になるかも知れないが……、西洋の芝居を勉強して来た演出家が演出した芝居が大体そうなつてきているね。これはやつぱり現代人の生活というものの観察のしかたが足りない所の方が大きくはないかと思う。そうして近代リアリズムというものの、日常性に結びついた魅力を深く掴んでいない結果だと思う。だから、些末主義に陥るとはいうけれど、実際は、リアリズムから、だんだんトリビアリズムに落ちこんで行つたという歴史が日本にはない。それはリアリズムというものの底をついて、デカダンスとしての些末主義じやなくて、リアリズムの上すべりをして安易にそこへ走つてしまつた些末主義だと思います。
 A 例えば新劇の役者なんかで非常にうまくなつてくると新派に似て来るとか、歌舞伎に似て来ると言われますが、そういうのはどうでしよう。
 岸田 それは、うつかりすると、役者に限らず一般日本人の中に偶然あるものの演劇的表現ですね。つまりわれわれの現在の生活、俳優の場合には役者としての生活がまだはつきり残つているんじやあないか、過去の俳優の生活から切り離されていません。それは劇団の中の雰囲気をみてもすでにわかりますね。いわゆる歌舞伎、新派と絶縁した雰囲気じやあない。
 A 永く俳優をやつていると、演技をするということに慣れてしまつて、戯曲を素材として、新しい芸術作品を創り出すということから離れてしまう。……
 岸田 それは多少はあるでしよう。しかし芝居そのものが自然にあるマンネリズムに陥る、型にはまるということはあつても、それは、今迄あつた型に帰るとは限らない。別の一つの型が出来そうなものだ。歌舞伎や新派の役者と同じ生活感情がまだどこかに残つている。
 A 具体的に言うと杉村さんが新派々々と言われるが、私は拝見してみてそうは思わない。似ているものはあるが……違つていると思う。それで杉村さんは満足しているかといえばそうじやあない。どうしていゝかわからない。苦しんでいるという。それでいけないならばどうしたらいゝか、という苦悩を非常にもらしているという話をきゝましたが。
 岸田 杉村君なんか僕に言わせるとあれでなかなか現代の女性ですがね。しかし、なかなかという程度であつて、完全なる現代女性といえるかどうか。これは別に非難じやあない。そんなに完全な近代女性というものはまだまだ日本じやあ稀れにしか生れていな…

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