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福田恆存君の「キティ颱風」
ふくだつねありくんの「キティたいふう」
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集28」 岩波書店
1992(平成4)年6月17日
初出「人間 第五巻第三号」1950(昭和25)年3月1日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2010-11-06 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 福田恆存君の戯曲「キティ颱風」を読んで非常に面白かつた。
 いろいろな先入観をもつてこの作品を読むひともあるだらうが、私もその一人であつたことを告白する。その第一は、福田君が自他ともにゆるす批評家であるといふこと、第二は、既に幾月か前に、甚だ風変りな戯曲「最後の切札」を発表し、いささか鬼面人を脅かすかの如き野心を示したこと、が、その理由として挙げられる。
 私自身についていへば、福田君のチェエホフ論にはチェエホフの戯曲を最もよく理解するものゝ深い洞察があり、また「最後の切札」は、戯曲作家の皮肉な内省を主題とする「観念の舞台化」ともいふべき大胆な試みに少なからぬ興味を覚えたのであるが、そのことは、今度の「キティ颱風」を前にして、なにか意外なやうでもあり、また当然のやうでもある、不思議に混乱した感慨を催させる原因となつた。
 福田君は、事実、「キティ颱風」に於ても、尋常でない意図をその作劇の上に示さうとしたことはたしかである。例へば、人物の関係をことさら複雑に入り組ませたり、事件の中心を次第にぼかし、絶えず何か起りさうで起らず、起りかけてはいつの間にか消える、言はゞ事件をはらむ雰囲気の波状形の起伏の連続のなかに、一群の人物の心理と行動とを絶えずダブらせながら暗示的に誘導するといふ、まつたく常識的なドラマの逆を行く手法を用ひてゐる。
 しかしながら、これは別に、戯曲の本質を無視したり、前人未踏の試みを敢てした結果にはならず、可なりの抵抗を予想してゐた私の期待はいくぶん外れたが、それは残念でもない。却つて、事件の発展そのものに興味をつながせる通俗味を排して、真に「演劇的なモメント」を、活きた舞台の言葉と、時間のよどみなき経過のうちに求める、純粋な戯曲美の構成に作者がもつとも力を注いだといふ幸ひな一例をこゝに見たからである。
 もちろん、この作品の特色はさういふ作劇法のうへにだけあるのではない。かゝる作劇法を自然に要求した主題の性格もまた、注目に値する。作者はまづ、キティ颱風の名によつて今井家の女主人を中心とする、現代人、とくに戦後の知識人の精神像を、そのさまざまな畸型性によつて捉へ、無目的な行動と、粘着力のない個々の交渉を、やゝ懐疑的な、時としてはシニカルな視野のなかで戯曲化さうと試み、その試みに、だいたい成功してゐるのである。従つて、登場人物の一人一人が概ね確実なデッサンで描き出され、その配列は演劇の造形の面で極めてヴァライェティーに富み、とくに暗示的とも言へる対話は、弾力と生彩に於て類の少いものになつてゐる。この作者の人間観察には、いくらか冷やかなポーズが目立たなくもないが、一方、戯曲としての強味は、この種の主題を処理するために必要で十分な機智が、ある時は、適度の諧謔として、ある時は、切れ味の快さともなつて、全篇を鮮やかに貫いてゐることである。
 批評家福田君…

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