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一つの挿話
ひとつのそうわ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集28」 岩波書店
1992(平成4)年6月17日
初出「文芸 第八巻第九号」1951(昭和26)年9月1日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2011-04-10 / 2014-09-16
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 亡くなつた林芙美子さんのことについて何か書けといふ注文である。なんといつても、これは少々筋ちがひのやうに思はれるが、編集者Yさんは非常に物覚えがよく、私がある時、映画の試写会のあとで林さんと夕食を共にしたといふ話を、私から直接聞いたことがあるから、そんなに懇意な間柄なら、書けない筈はないと言ふのである。
 ところが、私は、Yさんにそんな話をした覚えはさらさらなく、まして、林さんと一緒に食事をしたことなどは、何かの会以外にはないのだから不思議である。Yさんが作り事を言ふ筈はないし、私も、そんなデタラメを喋る興味も必要もないとすると、私が、なにもかも忘れてしまつてゐるとしか考へられない。この方がむしろ大問題である。
 そんなわけで、林さんと私との面識の程度を、もしはつきりさせなければならぬとすると、約二十年間に前後三回(私の記憶を信じるとして)会つたきりである。
 最初は、徳田秋声さんの何かのお祝ひの会の時に、誰かに紹介され、その次ぎは、文芸春秋社主催の講演会で、これはたしか一週間に亘つて関西各地を廻る間、いはゆる行を共にした。かれこれ十五年乃至二十年も前のことである。
 最後は、ついこの間、今日出海君のお祝ひの会に出て、偶然林さんと隣合せの席につき、しばらく雑談をした。
 この程度の交渉で、私が特に林さんの思ひ出を語る資格があらうとは思へぬが、強ひて語るとすれば、また、それはそれで、私といふ人間の見た林さんのポルトレにはなるかも知れない。
 初対面の時は別に口を利き合つたわけではなく、なんでも、だいぶん席が乱れて来てから、林さんが妙な恰好の踊りをはじめ、その頃の私は女文士の勇敢さに度胆をぬかれたが、それよりも、その踊りをまたかといふ風に横目で眺めてゐる秋声老の、なんとも言へぬ笑ひ顔がまだ眼の底に残つてゐる。
 その後数年たつてのことだと思ふが、文芸春秋社の講演会で林さんと一緒になつた。ほかの土地でのことはもう記憶にないが、京都の宿に落ちついてからの、ちよつとした挿話をこゝに紹介しよう。これは、結局、林さんをだしに自分を語るやうなことになりさうだが、この挿話ひとつがあるために、私はこの一文を草する気になつたのである。
 宿の夕食をすますと、私は久々で京都の町を少し歩いてみようと思ひ、外出の支度をしはじめた。すると、それを見てゐた林さんが、散歩に出るなら、自分も一緒に出かけるからと言つて、座を起つた。京都の町は、わりに詳しいから、案内をしてあげるなどと言ひながら、なるほど勝手を知つたものゝ歩き方で、私をあちこちと連れ廻つた。
 やがて、私は、家へ何か土産を買つて帰らうと思ひ、そのことを林さんに言ふと、奥さんへのお土産なら、自分がいゝものを教へてあげるからと、いきなり、先づ、下駄屋へはいつて京風の桐の女下駄を、それから、袋物屋の店で、なんとかいふ名のついた絹地の紐…

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