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「葡萄畑の葡萄作り」後記
「ぶどうばたけのぶどうづくり」こうき
作品ID44873
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集28」 岩波書店
1992(平成4)年6月17日
初出「葡萄畑の葡萄作り」白水社、1934(昭和9)年10月12日
入力者門田裕志
校正者Juki
公開 / 更新2011-10-31 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私はこの書物を大正十四年の一月に訳了し、同年四月に出版した。爾来、二度形を変へて世に送つたが、既刊の分は何れも絶版になつてゐるので、今また白水社の需に応じて、四度目の勤めをさせることにした。
 この機会に、出来るだけ手を入れるつもりで原書ともくらべてみたが、思ひがけない誤訳もいくつか発見したし、今日までに得た原作者に関する知識で文体なども多少改める必要を感じた。要するに、翻訳といふ仕事は、手をかければかけるだけ安心できる仕事で、その点、乏しい才能を鞭撻して鞭撻し甲斐のある、凡そ唯一の文学的作業であるやうに思ふ。
 最近、同じ作者の「にんじん」がいろいろな事情に恵まれて短期間に不思議なくらゐ版を重ねたのであるが、訳者は勿論、この「葡萄畑」が、「にんじん」の如く一般の口に合ふとは思つてをらぬ。たゞ、「にんじん」によつて作者ルナアルの一面を識つた読者に、更めて「葡萄畑」の一面を紹介することにより、この類ひ稀な芸術家の風貌をやゝ全面的に伝へることができたら、訳者の望は足りるのである。
「にんじん」が、彼の少年時代を苦き回顧の情を以て綴つたものとすれば、「葡萄畑」は、よりストイツクな心境を透して、人生と自然とに慎ましい微笑を送つてゐることがわかる。
 浪漫的ユモリスムから古典的自然主義への進展は、彼に取つては一つの飛躍であり、転向であるとさへ思はれるのであつて、小説「にんじん」に含まれる「俗情」の意識的暴露は、ルナアルの一生を通じて、悲劇的な執拗さを示してゐるにもせよ、読者を反撥せしめるものが次第になくなつて来た。
「葡萄畑」に於て、特にわれわれを愉しませるものは、彼自ら、「幻象の猟人」と呼ぶに応しい観察の記録である。
 彼が好んでつかふ比喩の形式を、思想の貧しさとして嗤ふものもあるが、比喩は、彼の場合、単なる比喩ではなくして、生命の瞬時の相である。彼は日記にもそのことを記してゐるが、人はある時はそれに気づかず、あるときはふと、それに気づくことがある。時と場所とをかへて彼の作品を読むがよい。嘗てはさほど印象の鮮かでなかつた個所が、突然、いきいきとわれらの眼前をよぎるであらう。彼は恒にかくある姿を描かうとしない。また、何人も、かく感じ得る状態を捉へようとしない。その代り、人間なら誰でも、ふとした機みに、ある限られた条件で、そのものを観、聞き、触れる場合には、必ずさう感じなければならぬ一つの姿を、驚嘆すべき正確さを以て言葉に写す技を心得てゐるのである。「卑小さの偉大さ」といふ評言は、謂はゞ、俗眼に映ずる非凡な風景を指すのであらう。
 かういふ特質は、文学のあらゆる特質のうちで、最も翻訳に適せぬものと信じるが、この冒涜は、私のルナアルに対する無上の愛によつて償ひたいと希つてゐる。
「葡萄畑」は、一八九四年(明治二十八年)著者三十歳の時の出版にかゝる。「にんじん」も同年の出…

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