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帰途
きと
作品ID4493
著者水野 葉舟
文字遣い新字新仮名
底本 「遠野へ」 葉舟会
1987(昭和62)年4月25日
入力者林幸雄
校正者今井忠夫
公開 / 更新2004-03-29 / 2014-09-18
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

 三月二十七日――陸中のこの山間の村一帯に雪にまじって雨が降った。
 その雨で、しだいに解けてきていた、薄い雪の下から黒い土がところどころに見え出した。――一冬通して、土の上をすっかりつつんで積っていた雪が、ところどころに黒い土を見せて来た。黒ずんだ色をして立っている山の林がどことなく灰色になって来た。しんとした、凍った空から、倦んだような光を見せていた日光にも、しだいに春に覚めて行く、やわらかい、力のある光が見えてくる。雪に当たる日の反射にも、暖か味が出て来たのを感じられる。
 雪に包まれた東北の野は、のろのろと春に移って行こうとする。長い、陰鬱な、単調な冬が消えて行こうとする。
 私は或る研究の材料を集めるためと、一つはこの地方に特別な好奇心を持っていたのとで、一と月ばかり前からはるばるこの陸中のT村に来ていたが、どっちを見ても雪ばかりのなかで、雪国ふうの暗い陰鬱な家の内にいると、心はしだいに重く、だるくなってしまった。
 凍って青く光っている、広い野の雪の色も、空気が透明で、氷を透して来たような光を帯びた碧空に、日が沈んで行く。黄昏の空にも、その夕星の光にも、幾日も経たないうちに、馴れてしまった。仮りに死んでいるような、自然の姿の単調さに心が倦んで行く。すると、鈍色をした、静まり返った自分の周囲の光景が、かえって心をいらだたせるのであった。
 私は何よりもまず、賑やかな東京の夜が恋しく思われてくる。

 S君も――これは私の東京での友人で、この村の人だが――、この人は私よりも強く東京が恋しくなっていた。
 S君は毎年冬と夏とは家事の監督や、仕切りをするために、東京から帰ってくる、この村の地主の一人だ。東京ではのどかに書籍の中に没頭して暮している。それに年もまだ若いのだし、郷里に帰って来ても、いつも用事がすむと、すぐに東京に帰って来てしまうのだが、私が来ると言うので、暮れから三月になるまで、この雪の中で辛抱して、待っていた。……だからその飽き方もひどい。
 私の顔が何か新しいものでも持って来たと見えて、来た当座は、闇の中でぱっとものが光ったように、S君の心持ちも一時生々した。しかし、それもしるしばかりで、次では私の心まで、この陰鬱な空気が沁み込んでしまった。
 この頃は二人とも、よく欠伸をした。大きな薄暗い室の中で、炬燵にあたりながら、張りのない目付きをして、日を送った。私にはS君が気にかけて説明してくれる、このへんの村の生活や、雪に閉じられている中の面白い遊びなどが、すっかり予期にはずれてすべて少しも興味が起こらなかった。その心のだるさに伴れて初めから目的にして来たことにまでも、はきはきと気がすすまなかった。
 そうしているうちに、或る日ふとS君がこう言った。
「東京の女の声が聞きたい!」するとそれを私はすぐ引き取って、
「ほんとだ。僕…

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