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大菩薩峠
だいぼさつとうげ
作品ID4503
副題17 黒業白業の巻
17 こくごうびゃくごうのまき
著者中里 介山
文字遣い新字新仮名
底本 「大菩薩峠5」 ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年2月22日
入力者(株)モモ
校正者原田頌子
公開 / 更新2002-10-31 / 2014-09-17
長さの目安約 186 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 八幡村の小泉の家に隠れていた机竜之助は、ひとりで仰向けに寝ころんで雨の音を聞いていました。雨の音を聞きながらお銀様の帰るのを待っていました。お銀様は昨日、そっと忍んで勝沼の親戚まで行くと言って出て行きました。今宵はいやでも帰らねばならぬはずなのに、まだ帰って来ないのであります。
 お銀様は、竜之助を連れて江戸へ逃げることのために苦心していました。勝沼へ行くと言ったのも、おそらくは親戚の家を訪わんがためではなくて、いかにして江戸へ逃げようかという準備のためであったかも知れません。
 こうして心ならずも小泉の家の世話になっているうちに、月を踰えて梅雨に打込むの時となりました。昨日も今日も雨であります。明けても暮れても雨であります。ただでさえ陰鬱きわまるこの隠れ家のうちに、腐るような雨の音を聞いて竜之助は、仰向けに寝ころんでいるのであります。
 雨もこう降っては、夜の雨という風流なものにはなりません。竜之助はただ雨の音ばかりを聞いているのだが、一歩外へ出ると、そのあたりの沢も小流れも水が溢れて、田にも畑にも、いま自分の寝ている縁の下までも水が廻っていることは知らないのであります。
 梅雨になるまでには、花も咲きました、木の葉も青葉の時となったことがありました、野にも山にも鳥のうたう時節もあったのだけれど、それも見ずに雨の時節になって、その音だけが耳に入るのであります。
 竜之助とお銀様との間は、なんだか無茶苦茶な間でありました。それは濃烈な恋であったかも知れないし、自暴と自暴との怖ろしい打着かり合いであるようでもあるし、血の出るような、膿の出るような、熱苦しい物凄じい心持がここまでつづいて、おたがいにどろどろに溶け合って、のたりついて来たようなものであります。おたがいに光明もなければ、前途もあるのではありません。
 今、お銀様に離るることしばし、こうして雨を聞いていると、竜之助の心もまた淋しくなります。この人の心が淋しくなった時は、世の常の人のように道心が萌す時ではありません。むらむらとして枕許に投げ出してあった刀を引き寄せて、ガバと身を起しました。例によって蒼白い面であります。竜之助が引き寄せた刀は、神尾主膳の下屋敷にいる時分に貰った手柄山正繁の刀であります。それをまた燈火に引き寄せてはみたけれど、さてどうしようというのではなし、茫然として坐り直して、刀を膝へ置いたばかりであります。
 その時に家の外で、急に人の声が噪がしくなりました。
「危ねえ、土手が危ねえ」
という声。
「旦那様、笛吹川の土手も危ないそうでございます、山水も剣呑でございます、水車小屋は浮き出しそうでございます、あらくの材木はあらかたツン流されてしまいました、今にも山水がドーッと出たら大変なことになりそうでございます、誰も今夜は、寝るものは一人もございません」
 小泉の主人にこう言って…

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