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処女の純潔を論ず
おとめのじゅんけつをろんず
副題(富山洞伏姫の一例の観察)
(とやまのほらふせひめのいちれいのかんさつ)
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」 筑摩書房
1974(昭和44)年6月5日
初出「白表女学雑誌」1892(明治25)年10月8日
入力者kamille
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2005-10-28 / 2014-09-18
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 天地愛好すべき者多し、而して尤も愛好すべきは処女の純潔なるかな。もし黄金、瑠璃、真珠を尊としとせば、処女の純潔は人界に於ける黄金、瑠璃、真珠なり。もし人生を汚濁穢染の土とせば、処女の純潔は燈明の暗牢に向ふが如しと言はむ、もし世路を荊棘の埋むところとせば、処女の純潔は無害無痍にして荊中に点ずる百合花とや言はむ、われ語を極めて我が愛好するものを嘉賞せんとすれども、人間の言語恐らくは此至宝を形容し尽くすこと能はざるべし。噫人生を厭悪するも厭悪せざるも、誰か処女の純潔に遭ふて欣楽せざるものあらむ。
 然れども我はわが文学の為に苦しむこと久し。悲しくも我が文学の祖先は、処女の純潔を尊とむことを知らず。徳川氏時代の戯作家は言へば更なり、古への歌人も、また彼の霊妙なる厭世思想家等も、遂に処女の純潔を尊むに至らず、千載の孤客をして批評の筆硯に対して先づ血涙一滴たらしむ、嗚呼、処女の純潔に対して端然として襟を正うする作家、遂に我が文界に望むべからざるか。
 夫れ高尚なる恋愛は、其源を無染無汚の純潔に置くなり。純潔より恋愛に進む時に至道に叶へる順序あり、然れども始めより純潔なきの恋愛は、飄漾として浪に浮かるゝ肉愛なり、何の価直なく、何の美観なし。
 わが国の文学史中に偉大なる理想家なしとは、十指の差すところなり。近世のローマンサーなる曲亭馬琴に至りては批評家の月旦甚だ区々たり、われも今卒かに彼を論評する事を欲せず。細論は後日を期しつ、試みに彼が一代の傑作たる富山の奥の伏姫を観察して見む。ロマンチック・アイデアリストとしての馬琴の一端は、之を以て窺ひ知るを得んか。
 わが美文学は、宗教との縁甚だ深からず、別して徳川氏の美文学を以て然りとなす。俳道の達士桃青翁を除くの外、玄奥なる宗教の趣味を知りたる者あらず、是あるは恐らく馬琴なるべし、然ども桃青と馬琴とは其方向を異にして仏教の玄奥に入れり、もし桃青の仏教を一言の下に評するを得ば彼は入道したるなり、もし馬琴の仏教を一言の下に表はすことを得ば彼は知道なり、桃青は履践し、馬琴は観念せり、桃青は宗教家の如くに仏道をその風流修行に応用したり、馬琴は哲学者の如くに仏道を其理想中に適用したり、桃青の仏道は不立文字にして、馬琴の仏道は寧ろ小乗的なるべし。われは桃青を俳道の偉人として尊敬すると共に、馬琴を文界の巨人として畏敬せざるを得ず。
 軽浮剽逸なる戯作者流を圧倒して、屹然思想界に聳立したる彼の偉功の如きは、文学史家の大に注目すべきところなるべし。然れども是等の事、凡てわが論題外なり、いで富山の洞に寂座し玉ふ伏姫を観察せむ。
「八犬伝」一篇を縮めて、馬琴の作意に立還らば、彼はこの大著作を二本の角の上に置けり。其一はシバルリイと儒道との混合躰にして、他の一は彼の確信より成れる因果の理法なり。全篇の大骨子を彼の仁義八行の珠数に示したるは、極めて美…

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