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貝殻追放
かいがらついほう
副題017 泉鏡花先生と里見弴さん
017 いずみきょうかせんせいとさとみとんさん
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「水上瀧太郎全集 九卷」 岩波書店
1940(昭和15)年12月15日
初出「人間」1920(大正9)年2月号
入力者門田裕志
校正者岩澤秀紀
公開 / 更新2012-06-20 / 2014-09-16
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 田山花袋氏は里見[#挿絵]さんを評して「大正の鏡花」と呼んで居る。その他、雜誌や新聞にも「大正の鏡花」は散見した。云ひ出したのは田山氏か、別の人か、自分は知らない。無責任な雜誌や新聞の「大正の鏡花」呼ばはりには、ほめた意味の時もあり、輕く扱つた意味の時もあつたが、田山氏の場合は、明かにほめた意味では無かつた。恰も「文章世界」の投書家の小説を評して、「大正の花袋」だと云ふのと同じ程度のものであつた。
 今更言ふ迄も無い事だが、泉先生は明治大正にわたつての偉大なる作家である。自分は常に斯う思ふ。若し先生が西洋に生れたとしたら、先生は世界的の作家として喧傳され、日本の飜譯家達は、先を爭つて誤譯だらけの飜譯をするに違ひない。不幸にして先生は、他國の人には讀み切れない、やゝこしい言葉の國に生れた爲め、敏感なる歐羅巴の文藝批評家に鑑賞の歡喜を與ふる事なく、鈍感なる此の國の西洋盲拜者流から、屡々誤つた批評を受ける事になつた。
 里見[#挿絵]さんが勝れたる作家だといふ事も、既に喋々する必要はなくなつた。乍併里見さんの場合にも、鈍くて押の強い連中は、屡々間違つた批評を浴せかける。「大正の鏡花」の如きも勿論その一例である。
 凡そ一流の達人は、その道の藝の巧拙を見誤る事が殆ど無い。泉先生が常に里見さんの作品のいいところと出來損つたところとを、痛い程明かに指摘されながら、しかも[#挿絵]さんの冴えた手腕を推稱して、現代並びなきものとして居られるのは、かくれもない事實である。里見さんが泉先生に敬服し切つて居る事は、新著「慾」を獻じて居る事によつても、世の中に知れわたつて居る筈だ。
 さうして此の御兩人が、親しいおつきあひをして居られる事も事實である。けれども「大正の鏡花」に至つては、泉先生も里見さんも、お互に迷惑を感じるに違ひ無い。
 泉先生の藝は[#挿絵]さんの所謂肚の藝である。斷つて置くが、茲に肚の藝とは、確固たる自己の世界を把持して動かない人の藝を謂ふのである。由來僞物の藝は容易に眞似する事が出來るが、肚の藝はさうはいかない。以前は、泉先生の眞似をする人間が隨分澤山あつたが、到底も眞似切れなくなつて、影をひそめてしまつた。里見さんの藝も肚の藝である。相手がどんな偉い人だらうが、好きな人だらうが、その人の眞似なんかしようとは思はない人間である。若し眞似をしようと思つたら、お手本よりも一枚上手に出て、まんまと自分の肚の藝にし生かしてしまふに違ひ無い。さういふひえもんを持つて生れた人だ。
 かう書いて來ると、勢ひとして、御兩人の作品の相違する點を眞赤になつて論じなければならなくなりさうだが、それは餘りわかり過ぎた事で馬鹿々々しい。自分はその馬鹿々々しさを避ける爲めに、最近に拜見した御兩人の作品各一篇を選んで、その作品から受けた感激に醉ひながら、且つ作者の特點を明かにしたい。
「…

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