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断唱
だんしょう
作品ID45288
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第三巻」 筑摩書房
2002(平成14)年5月20日
初出「不同調 第三巻第三号」不同調社、1926(大正15)年9月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-08-10 / 2014-09-21
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

          *

 父が若い時にあつめた“Cook book”の文庫のうちに“American's popular Cook book”といふ、表紙にブルクリン橋の写真のついた、大きい本で重くて気の毒だが、画布のやうな布で作られてゐる本があるから、此処に寄る時にそれを持つて来て呉れないかといふことを私は、弟に言伝てた。
「いくら探しても無かつた。第一そんな文庫もありはしない。これと、あと二三冊、表紙の文字も読めない程よごれてゐるのがあつたゞけだつた。止さうと思つたが、一冊だけ持つて来た。」
 友達と一処にアルプス登山に行くついでに立ち寄つた私の弟は、何となく赤い顔をして伴れの自分の友達を顧慮しながら、登山袋の中から表紙などはすつかりボロになつてゐる部厚な本を取り出した。
「これぢやいけないだらう?」と私は、私の友達であるHに訊ねた。“American's popular Cook book”を、昔、その文庫を見たことのあるHが欲しいと云つたのであつた。
「……“Presidential Cook book”と? …… the Old festival Volume, ナンバー・ワンだつて! これは困つた、古式の何かだよ。真似どころの騒ぎぢやない。」とHは、自身と吾々に対してその本の表題から皮肉を感じたらしく苦笑した。私は、Hの手でめくられてゐる絵の頁をのぞき込みながら、子供の頃この彩色版を絵本のやうにして眺めたことのある記憶を呼び返された。
「おや、何か入つてゐたよ。」と云つてHは、それが字の書いてあるエハガキであることに気附いたので、見ずに私の膝に投げた。
「今月ノ君ノ写真ハコノ前ノ君ニクラベルト見チガエルホド大キクナツタ、余モコノトホリ元気ダ、余ハ今年ノ夏ヲミシガントイフ湖ノソバデオクル。次ノ手紙ヲ待テヨ。母上ノ命ヲ守リテ、シンイチヨ健在ナレ。常ニ君ニ親愛ヲモツ君ノ父ヨリ。」
「何日に帰つて来るのか、はつきり云つて寄越してお呉れツて阿母さんが云つてゐたが――」
「毎日/\帰らうと思つてゐるので、返つて帰り損つてゐるのだ。」と私は、変にギクギクとした甘ツたるい口調で答へながら、すツと立ちあがつて、慌てゝ机の下の鍵のかゝる手箱の中に古いエハガキをしまつた。

          *

「一番俺が腕をふるつて、貴家の、原始的な食卓に清新な皿を提供してやらうと思つたのであるが、これでは――」
 さう云つてHは、さも/\落胆したやうに膝の上の古本を投げ出した。そして、ブツブツとこぼしながら、生のキウリを噛つて、酒を飲んでゐた。
「稀には何かうまいものを喰ひたいなあ。」と私も、沁々と嘆息を洩した。
「稀には――」と私の妻も同意した。「稀には何処かへ伴れてつて貰ひたいなあ?」
「その袋の中には、どんな食料品が入つてゐるの?」私は、弟の登山袋に横目をつかつて「山…

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