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琴の音
ことのね
作品ID4529
著者樋口 一葉
文字遣い新字旧仮名
底本 「新日本古典文学大系 明治編 24 樋口一葉集」 岩波書店
2001(平成13)年10月15日
初出「文學界 第十二號」文學界雜誌社、1893(明治26)年12月30日
入力者土屋隆
校正者noriko saito
公開 / 更新2007-09-08 / 2014-09-21
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

   (上)

 空に月日のかはる光りなく、春さく花のゝどけさは浮世万人おなじかるべきを、梢のあらし此処にばかり騒ぐか、あはれ罪なき身ひとつを枝葉ちりちりの不運に、むごや十四年が春秋を雨にうたれ風にふかれ、わづかに残る玉の緒の我れとくやしき境界にたゞよふ子あり。
 母は此子が四つの歳、みづから家を出でゝ我れ一人苦をのがれんとにもあらねど、かたむきゆく家運のかへし難きを知る実家の親々が、斯く甲斐性なき男に一生をまかせて、涙のうちに送らせん事いとほし、乳房の別れの愁らしとても、子は只一人なるぞかしと、分別らしき異見を女子ごゝろの浅ましき耳にさゝやかれて、良人には心の残るべきやうもあらざりしかど、我が子の可愛きに引かれては、此子の親なる人をかゝる中に捨てゝ、我が立さらん後はと、流石に血をはく思ひもありしが、親々の意見は漸く義理の様にからまりて、弱き心のをしきらんに難く、霜ばしら今たふれぬべきを知りつゝ、家も此子も、此子の親をも捨てゝ出でぬ。
 父は一人ゆきたることもあり、此子を抱きて行きたることもあり、これを突きつけて戻りたることもあり、我れは此まゝ朽はてぬとも、せめては此子を世に出したきに、いかにもして今一たび戻りくれよ、長くとには非ず今五年がほど、これに物ごゝろのつきぬべきまでと、頼みつすかしつ歎げきけるが、さりとも子故に闇なるは母親の常ぞ、やがては恋しさに堪えがたく、我れと佗して帰りぬべきものをと覚束なきを頼みて、十五日は如何に、二十日は如何に、今日こそは明日こそはと待つ日空しく過ぎて、はては尋ね行きたりとて、面を合はする事もなく、乳母にや出けん、人の妻にや成りけん、百年の契りは誠に空しくなりぬ。
 斯くて半年を経たりし後は、父もむかしの父に非ずなりぬ、見かぎりて出にし妻を、あはれ賢こしと世の人ほめものにして、打すてられし親子の身に哀れをかくる人は少なかりき、夫れも道理、胸にたゝまるもや/\の雲の、しばし晴るゝはこれぞとばかり、飲むほどに酔ふほどに、人の本性はいよいよ暗くなりて、つのりゆく我意の何処にか容れらるべき、其年の師走には親子が身二つを包むものも無く、ましてや雨露をしのがん軒もなく成りぬ、されども父の有けるほどは、頼む大樹のかげと仰ぎて、よしや木ちんの宿に蒲団はうすくとも、温かき情の身にしみし事もありしを、夫すら十歳と指をるほどもなく、一とせ何やらの祝ひに或る富豪の、かゞみを抜いていざと並べし振舞の酒を、うまし天の美禄、これを栞りに我れも極楽へと心にや定めけん、飢へたる腹にしたゝかものして、帰るや御濠の松の下かげ、世にあさましき終りを為しける後は、来よかし此処へ、我れ拾ひあげて人にせんと招くもなければ、我れから願ひて人に成らん望みもなく、はじめは浮世に父母ある人うらやましく、我れも一人は母ありけり、今は何処に如何なることをしてと、そゞろに恋しきことも…

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