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川を遡りて
かわをさかのぼりて
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第四巻」 筑摩書房
2002(平成14)年6月20日
初出「若草 第六巻七号」宝文館、1930(昭和5)年7月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-02-03 / 2016-05-09
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 私たちは、その村で一軒の農家を借りうけ、そして裏山の櫟林の中腹にテントを張り、どちらが母屋であるか差別のつかぬ如き出放題な原始生活を送つてゐた。
 或朝テントの中の食堂で、不図炊事係りの私の妻が気附くと、パンが辛うじて、その一食に足りる程度しか無かつた! のを発見して、叫んだ。
「正ちやん――あたし、うつかりしてゐたのよ。済まないけれど、お午までに町まで行つて兵糧を仕入れて来て呉れない。」
「町へ行くのは何でもないけれど――為替は来てゐるの?」
「未だなのよ。」
 妻は苦笑を浮べて私の顔を眺めた。私は生のキウリを噛りながらパンを頬張つてゐたが、妻の注視を享けると、食物が胸に支へてしまつて、嚥込むことが出来なくなり、ギヨツとした。――すると、そんな切端詰つた場合であつたにも係はらず、一同は、私の眼つきが、昼間の梟のそれのやうに間が抜けてゐて、見るからに気の毒気である! と評して、賑やかに笑つた。
 斯んなやうな類ひの出来事で忽ち仰天の色を顔に現し、真に眼を白黒させるが如き痴態を示すのが、最も速やかな分別を示さなければならぬ筈の立場にある私だつたから、このキヤンプ生活は恰も隊長のない探険隊に等しかつた。
「それあ、町へ行くのはドリアンを飛ばせて行くんだから僕は返つて面白いけれど、何しろ先月からは何も彼もキヤツシでなければ寄さないといふ規定が出来たのでね。然し僕等は何もそれがために特別な憂慮を持つことは要らないのさ。僕等だけに対して、そんな規定が出来たといふわけではなくつて……」
「そんな憂慮なんてことは知らないけれど、ともかく、お午までにあたし達は……?」
「身にするものとか、物品とかを売るといふ術はあるが……?」
「術はあつたつて、価値のあるものなんて何もないからね……?」
「何うしよう、タキノさん――?」
「僕達一同は、夫々一人宛のロビンソン・クルウソウになつて、こいつは何とか思案を回らさなければならないぞ……?」
 一同の者は次々に斯う云つて腕を組み、そして、その言葉の終りに感ぜられる「……、?」は一勢に私に向つて放たれてゐたわけであつた。人、二人以上相集れば、指揮者を俟たなければならぬ。号令者の声を待たねばならぬ。――そして、最も年長であり、また常々最も高言家である! ことだけを理由にしても、私が、こゝに至れば、指揮者となり号令者と化して、奮ひ立たなければ、浅間しい内乱が生ずるより他に道のない嶮崖に私達は到達したわけであつた。
 で私も、喰べかけてゐたパンとキウリを卓子の上に置いて、厳かに腕を組み、最も思慮深気に、そして強さうに、凝ツと眼を据ゑて虚空を視詰めた。
 ――ところが私は、秘かに深い溜息を衝いた。それは、単に私自身を軽蔑し、慨嘆する溜息であつた。何故なら私は、これ程切端詰つた状態に立ち至りながら(おゝ、吾々生物の生活に於て、これ以上の窮乏とい…

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