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凩日記
こがらしにっき
作品ID45317
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第五巻」 筑摩書房
2002(平成14)年7月20日
初出「中央公論 第四十八巻第十二号」中央公論社、1933(昭和8)年12月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-11-16 / 2014-09-21
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

          *

 心象の飛躍を索め、生活の変貌を翹望する――斯ういふ意味のことは口にしたり記述されたりする場合に接すると多く無稽感を誘はれるものだが、真実に人の胸底に巣喰ふ左様な憧憬や苦悶は最も原始的に多彩な強烈さを持つて蟠居する渦巻であらう。僕も亦不断に斯る竜巻に向つて戈を構える包囲軍中の一兵卒である。勇敢なる軽騎兵だ。然し僕は、余りに激烈なる突撃のために、屡々自己を見失つて乗馬の鞍から転落する。
 あの、僕の友達の作品が日本美術院の展覧会に出品されたのは、たしか昭和四年の秋かと憶える。「マキノ氏像」と題する青銅の胸像で、僕の真正面向きをモデルに執つたものである。――ありのまゝの己れを見ることの苦しさよ、昨日の己れは綺麗に棄てゝ、明日の己れを樹てたきものよ! と悶掻くことの迷信から、僕はそれを浮浪青年なる八代龍太が保管を引き享けるといふがまゝに、二度とは対面したくなきものと呟きながら彼の腕に托し棄てた。僕はそれに向つて、作品としての価値は問ふことなしに、単に己れの姿を眼前に引き据えた傷心から、罵りと共に永別を告げた。龍太は僕の罵り声が次第に激しく(何故なら僕はその後龍太に出会ふ毎に、激しく毛嫌ひするマキノ氏像を思ひ出すので。)なると、終ひに彼は僕の意のある所を忖度し損じ、彼を僕が憎むかの如き誤解から罵倒を返して立ち去つた。以来龍太の行衛は不明であつたが、不図二三日前、三田の露路裏の質店の中で二人は顔と顔とを突き合せた。
 僕は、空想の驢馬から転落して重傷を負ひ、おそらく消極的な喪心の廃兵だつた。僕は、心象の飛躍を索める夢も消えて土竜の心であつた。新しく移つた貸室館の屋上で、寒空の星を眺めるより他にせん術もないと嘆き疲れた上句望遠鏡を購ふべき金策に現れたのであつた。一体俺のあの顔は何んなであつたか――そんな過去の己れを思ふことほど、憐れに消極的な寒さはまたとあるまい。龍太は、僕の姿を見ると同時に小声で、アツ! と叫んだが、利息の言ひわけを済すと慌てゝ逃げて行つた。僕は龍太の後を追ひかけた。永別を告げた筈のあの青銅像に突然の未練を強ひられたのだ。忘れた己れの顔をもう一度眺めたら、気力がとり返せるか! と、それは絶望の淵に臨んで思ひ浮べる、矢張り最後のひとりであるかのやうだつた。

          *

 三丁目を左に折れて三田通りに出ると既に龍太と僕の距離は凡そ二十メートルであつたが、向方は故意に遁走する脚であり、こちらも懸命に追ふ身ではあるものゝ心の重傷を堪える上に、逃げる彼の姿の上に僕は「逃げる己れの姿」を錯覚する迷信から脚が震えて、二三歩毎に二人の距離は一、二メートル宛は遠ざかつてゐた。終ひに僕は一散に街上を駆け出した。同時に龍太も一目散に逃亡を劃てた。泥棒だ/\! といふ喚声が挙つて弥次馬の蹄が騒然と鳴り出した。

          *…

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