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淡雪
あわゆき
作品ID45342
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第六巻」 筑摩書房
2003(平成15)年5月10日
初出「文藝春秋 第十三巻第十二号」文藝春秋社、1935(昭和10)年12月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-12-04 / 2014-09-21
長さの目安約 30 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 病弱者、遊蕩児、その他でも行末に戦人としての望みが持てさうもない子息達は凡て離籍して近隣の漁家や農家へ養子とするのが、昔その城下町の風習だつた。だが桑原家の主人は、そんな理由もなかつた長男を浦賀町の漁家へ、次男を風祭村の農家へ養子として片づけ、三女の園に自分の弟の息子を迎へて家系を継がせる筈だつた。その主人は桑原家の二度目の養子で、子息達は三人ながら彼の実子ではなかつた。園は十六の時、Fといふ可成り有名な歌舞伎役者のあとを慕つて、江戸へ出奔した。園は綺麗な白髪のお婆さんになつて、浦賀の兄の家で歿くなるまで終ひに生家の門をくゞらなかつたが、あの出奔の朝のことは幾つになつても、絵のやうにはつきりと憶えてゐると屡々人に語つて、鬱屈のない楚々たる微笑を浮べた。海棠の老木が門の両側に折重つて、花盛りだつた。冠木門の草葺屋根には蓮華の芽が伸びてゐた。園は普段男姿でしつけられてゐた。前髪をさげて、短い袂のついた水色の紋付の着物に、紬の荒い横縞の袴を着けてゐた。主人は、世間からは謹厳な人と呼ばれて他人に笑顔を見せることがなく、修身の訓話を口にするのが癖だつたが、案外無学で、書類書簡の類ひは悉く密かに妻や園に代筆せしめた。酒は一滴も口にしなかつたが、門の扉に閂が入つた時刻になると、昼間の強張つた力は掻消えて、酒に酔つた者のやうな怪訝な眼つきになつて、
「わしは体が冷えて寝つかれもせん。園は未だ坊やなんだから遠慮せずと、わしと寝て呉れんか。」
 そんなことを云つた。園が出奔を決行したのは母が歿くなつて、一周忌を経ぬ時であつた。母と箱根の温泉宿に湯治してゐた時、同宿だつた役者のFが、芸事に興味の深かつた母に折々招待された。母は以前の主人を思ひ出すと涙を滾したが、現在の主人のことに触れると何か切なさうに唇を引絞めて口を緘した。下女のみわは風祭村の豪農の娘で、行儀見習といふのであつたが、母の云ひつけは守らうともせずに、
「身代を競べれば、おらの家なんか斯んな居敷の五倍もで、倉には千両箱が積んであら。」
 と蔭では舌を出した。頬骨の高い顔で、ふゝんと嗤ふのが癖だつた。箱根を引上げる時になつても母は実家へ戻るのを無性に厭つて、湯本街道の中途である風祭村の別宅に落着いた後、其処で歿くなつた。多勢の主人の身寄の者だけが羽振りを利かせて、園の兄妹三人は手も出なかつた。――園は普段の男姿に金泥に海棠の花の描かれた翳扇を一本携えたゞけで、門協の廏から馬を引出して箱根から駕籠で戻つて来るFを酒匂川の橋銭小屋の傍らで待合せた。みわの鼾声が園の耳に残つてゐた。園は母がつくつた海棠の和歌の数々に節をつけて口吟みながら薄明けの街道を進んでゆくと、父やみわの脂臭い姿が、もう別世界の幻のやうに遠退くだけで、これからの自分の行末が美しい芝居のやうに幸福に想はれたゞけであつた。全く園は思ひ通りに幸福で、Fには妻が…

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