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女に臆病な男
おんなにおくびょうなおとこ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第五巻」 筑摩書房
2002(平成14)年7月20日
初出「文藝春秋 オール讀物 第四巻第三号」文藝春秋社、1934(昭和9)年3月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-11-16 / 2014-09-21
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 務めの帰途、村瀬は銀座へ廻つて、この間うちから目星をつけておいた濃緑地に虹色の模様で唐草風を織り出したネクタイを一本購つた。六円あまりだつた。――少々自分の分在には不相応のやうでもあり、失敗したかな? といふ軽い不安と、別に、つゝましく豪華な買物をしたやうな秘かな興奮を覚えながらいそいそとしてバスに乗つた。然し、バスに揺られながら尚もポケツトにしまつたネクタイのことを考へると、たつたそれ一本が若者らしくもなく何時も地味な暮しをしてゐる自分の傍らに突然不似合にも開いた美しい花のやうでもあり、彼はひとりでに顔のあかくなる思ひに襲はれた。
「少々、のぼせ過ぎてしまつたかな!」
 彼は思はず口のうちで、そんなことを呟くと、厭に胸の先がわくわくとして来て、後悔の念に襲はれたりした。……「自分が若し斯んな派手なものを結んだら、さぞアパートの連中がひやかすことだらうな!」
 左う思ふと村瀬は益々テレ臭くなつて、途方に暮れた。――村瀬が居る六階建の独身アパートは、元気一杯な朗らかな学生や若い務め人で満員だつた。まつたくネクタイ一本でも、誰それは近頃急におしやれになつたとか、恋人が出来たに違ひないとか――皆な奇妙に仲が善くて寄るとさわると、若々しい冗談を飛し合つて、恰でハイデルベルヒの学生達のやうだつた。その中で村瀬ひとりだけが、変なはにかみやで冗談はおろか、大きな声では笑ひ声ひとつたてられぬ程の内気者で、これはまた明るい花園の中のたつた一本の日蔭の蔓のやうであつた。自然彼だけは別物扱ひにされて、却つて滑稽視される傾きで彼等は彼だけを、
「村瀬さん――」
 と、さんを付けて称ぶといふ風だつた。身装でも物腰でも誰に比べても自分が一番野暮であると村瀬は知つて居たが、これまでついぞそんなことを気にもかけなかつたのに、どうも近頃、やはり青年は青年らしく陽気で、酒も飲め、唄も歌へて、そして身装なども相当にパツとしてゐる方が、
「幸福に違ひない……」
 と考へられてならなかつた。彼は稍ともすれば卓子の上に鏡を立てゝ、凝つと自分の顔を眺めるといふ癖が出来た。そして、
「この顔だつて、仲々凜々しいところがあるではないか!」
 と眼を据ゑて呟いた。それから彼は、
「よしツ!」
 と、下肚に力を容れて決心するのが癖だつた。「明日から生れ変つたやうに、快活な男となつてやるぞ!」
 だが、ひとりの部屋では繰り返し/\堅固な覚悟に奮ひ立つたが、一度び部屋の外で他人の顔に接すると、絶対に抗し難い奇妙に重く鬱陶しい、別に理由とてもないのに無性に/\「気恥しい!」思ひが、全身を恰も身に合はぬ窮屈な外套と云はうか、鎧と云はうか、手枷足枷と云はうか名状し難い強さで絞めつけられて来て、それこそほんたうに「穴があれば這入りたい!」といふ諭への通りに、無暗と赤面して来るのであつた。愉快な人達の仲間に加はつたり…

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