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奇友往来
きゆうおうらい
作品ID45348
副題(引越しをする男)
(ひっこしをするおとこ)
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第五巻」 筑摩書房
2002(平成14)年7月20日
初出「文藝春秋 オール讀物 第三巻第七号」文藝春秋社、1933(昭和8)年7月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-11-03 / 2014-09-21
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 いつも私はひとりで、教室の一番うしろの席について、うつらうつらと窓の外を眺めてゐる文科の学生であつたが、毎時間毎時間そんな風にして居眠りをしたり、屋根を見あげたりしてゐるうちに、恰度私の窓と真向ひにあたる政治部の教室で、やはり私と同じやうにぼんやりとして此方の窓を眺めたり、空を見あげたりしてゐる眼の据つた何処となく鷲を想像させるかのやうな精悍な容貌の学生と顔なじみになつてしまつた。やがて彼は、私と視線が出遇ふ毎に軽い微笑を浮べるようになつたが、何故か私はそんな時、慌てゝ顔を反向けるのが癖だつた。
 或る麗かな天気の日に校庭の芝生に胡坐をかいて私が弁当を喰つてゐると、私の直ぐ傍らでひとりの小倉の袴を着けた学生が胸から上に大きく拡げた新聞紙をかむつて大の字なりに手脚を伸したまゝ大鼾をあげて眠り込んでゐた。板草履が片方だけ脱げて裏返しになつてゐた。袴の紐にぶらさがつてゐるインク瓶が腹の上に載つて、大きな呼吸といつしよに波に浮んだ小鳥のやうにふわふわと揺れてゐた。彼は、大きな口でもあけてゐるらしく新聞紙のそのあたりはさかんな上下動にふくれたり吸ひついたりして天幕のやうであつた。
 こんな麗かな日の休み時間には、そこの芝生には気まゝ勝手の姿の学生達が隙間もない位ゐに一杯寄り集ふてゐるのが慣ひであつたから、直ぐ傍らにそんな寝像の者を見出しても別段珍らしくもなかつたのだが、その鼾声がだん/\と高まるに伴れて私は耳ざはりになつて適はなくなつたので、もつと離れたところへ逃れて弁当をつかひ終らうとして、箸をもつたまゝあたりの空席をきよろきよろと物色しはぢめた。
 ところが、さしもに広大な円型の芝生であつたにも関はらず、まるで日向ぼつこに逼ひあがつて来たペンギン鳥か、あざらしの群が寄り集まつてゐるかのやうに、どちらを向いてもあたりは満員であつた。あちらこちらからさゝやきの声やノートをめくる音や暗誦の呟きがおこつてゐたが、彼の鼾が、一番ものものしく周囲の空気を圧倒してゐた。その時向ひ側の誰かが、エヘンといふ如何にも迷惑さうな咳払ひを発した。すると、その鼾声は、それと全く同時にピタリと止つた。私は、「醒めたのかな?」とおもつた。休み時間に眠つてゐようが、笑つてゐやうが勝手なのにあまりあの咳払ひが技巧的だつたので、鼾の男の方が寧ろ感情を害して、咳払ひの男と争ひでも起さなければ好いがなどゝ不図私は憂へたりしたが、幸ひ彼は醒めた気色ひもなく、新聞紙はぴつたりと顔に吸ひついたまゝで音もなく、たゞ腹の上のインク瓶が微かに浮いたり沈んだりしてゐるだけだつた。
 で私は吻つとして更に弁当をつゞけやうとすると、しばらく静かだつた彼の鼾は間もなくまた、くま蝉が徐ろにぢりぢりと鳴きはじめるかのやうに微かに鳴りはじめたかと思ふとやがてうねりを含んだ調子を出して、再び物凄いとどろきに移つた。――するとまた…

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