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泉岳寺附近
せんがくじふきん
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第五巻」 筑摩書房
2002(平成14)年7月20日
初出「新潮」新潮社、1932(昭和7)年10月
入力者宮元淳一
校正者伊藤時也
公開 / 更新2006-10-20 / 2014-09-18
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     一

 泉岳寺前の居酒屋の隅で私が、こつぷ酒を睨めながら瞑想に耽つてゐると、奥で亭主と守吉の激しい口論であつた。
「こいつ奴、よく喋舌りやがるな。」
「喋舌るさ。喋舌られるのが厭だつたら、自分こそあんまりケチなことを云ふない。」
「やい、守吉、俺はケチで憤るんぢやないんだぞ。気をつけろ……」
 亭主の方は店に遠慮して、口のうちに癇癪を噛み殺しながら仕切りにぶつぶつ小言を吐いてゐる模様だつたが、守吉の方は親父の弱味をねらふかのやうに疳高い金切り声を挙げるのである。
「そんなに、あれが大事なら、稀には遊び道具位ゐ買つて呉れ――」
「未だ抜かすか、こいつ奴!」
「おやツ、打つのかね。打つなら打つて御覧なさいだ、やあい、青くなつてゐらあ、可笑しいや!」
 しかし守吉の声は、口惜しさのあまり涙に震へてゐた。
「こいつ、何て口の減らねえ野郎だつ!」
「さあ打て……殺さば殺せ……だ!」
「野郎――!」
 亭主が叫んだかと思ふと、コキンと、たしかに守吉の頭に拳固が鳴つた。
「あツ、痛てえ痛てえ、やりやあがつたな!」
 守吉は、おそらく実際の痛痒を倍にも誇張した底の、憎々しい居直り声を張りあげてあらん限りに、
「痛てえ、痛てえ!」
 と絶叫した。そしていつまでもそれを連呼するのであつた。さすがに亭主の方が堪りかねて、
「何てえ、始末の悪いガキだらう!」
 チヨツチヨツと舌打ちしながら店に現れると、私の他に二人ゐた職工風の若者に向つて、
「いや、何うも飛んだ騒ぎで……」
 と恥しさうにあやまつた。
 まつたくあれが子供の口かと思ふと、埒外の私達でさへ驚いて顔を見合せたのである。亭主はてれたわらひを浮べてゐたが、顔には血の気が失はれて、呼吸を秘かにはずませてゐた。守吉は亭主の長男で尋常五年生である。愚図で好人物で、そして物を言ふのにも相手の顔さへまともには決して見ないといふ風な無口の亭主に引きかへて、守吉は常々、もつと豊かな喋舌家である。
「あゝ、痛てえ痛てえ痛てえツ!」
 守吉は、手脚で激しく畳を打ちながら皮肉な悲鳴を挙げつづけてゐた。
「しかし、また、何うしたつてえことなのさ、子供の頭を擲るなんて……」
 堪りかねた一人の職工が、亭主に質問をかけると、彼は益々具合が悪さうに、うろうろして、いやどうも――と紛らせながら、奥に向つて、
「おいおい、好い加減にしろよ、守吉、煩せえぢやねえか……」
 と弱い妥協を申し込んだが、子供は益々激しく悲鳴の火の手を挙げてゐた。――「太鼓を買つて呉れ、ケチなこといふ位なら太鼓と刀を買つて呉れ!」
 私は彼と、往来で出遇へば微笑を交す程度の仲であつたが、彼が仲間と遊んでゐるところなどを見ると、斯う云ふ商売の息子であるせゐか、酔客の口説を真似ることや、野卑な冗談を吐いたりすることが非常に巧者で、聞くだにひやひやさせられる場合が屡々だつた。…

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