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南風譜
なんぷうふ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第四巻」 筑摩書房
2002(平成14)年6月20日
初出「婦人サロン」文藝春秋社、1931(昭和6)年5月~10月
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-02-17 / 2016-05-09
長さの目安約 103 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     一

 卓子に頬杖をして滝本が、置額に容れたローラの写真を眺めながら、ぼんやりと物思ひに耽つてゐた時、
「守夫さん、いらつしやるの?」
 と、稍激した調子の声が、窓の外から聞えてきた。
(誰だらう?)
 滝本は、この時、見境へもなく、返事が出来るほど、心が晴れやかでなかつた。
「矢ツ張り、留守なのか知ら?」
 と、窓の外の人は呟いだ。
 それで、滝本に――百合子だ……と解つた。恰で、他人と会話をするのと同じ調子の明瞭さで、稍ともすると和やかな独り言を呟くのが、滝本の印象に一番鮮やかな百合子の特徴だつたから――。
「居るんだよ!」
 滝本は、慌てゝ窓を展いた。
 純白の春の半オーバと、同じ色のターバン・キヤツプを無造作に被つた、素直に丈の高い百合子が、
「おゝ、好かつた!」
 と片手を挙げて微笑んでゐた。片方の手には、スーツ・ケースを下げてゐた。
「元気の好い様子だね――お休みが余ツ程嬉しいと見えるね。」
 滝本は、百合子の手から鞄をとりあげ、
「こゝから、お入りよ。さあ、手を執つてあげよう。」
 と、前身を窓から乗り出して、両腕を差し伸した。――「随分、重い鞄ぢやないか、ひとりで来たの?」
「ひとりで大丈夫よ。」
 百合子は、窓を指して微笑んだ。窓枠は、百合子の恰度頤のあたりまでの高さだつた。
「その、花の植木鉢をのかして頂戴な。」
 二三歩後ろに退いてから、百合子は軽く勢ひをつけて、ひらりと窓枠の上に飛び乗つた。
「玄関で、何辺も呼んで見たけれど、一向に返事がないので、もう空家になつてしまつたのか知ら――と思つたわ?」
「うむ……それは、ちつとも気がつかなかつたけれど、相変らず阿母との間が面白くなくつて――僕は、何時でも玄関には錠を降し放しにして置くんだよ。で、百合さんは、何時帰つて来たの?」
 と、百合子は、それには答へないで、
「ね、守夫さん――」
 と仰山に眼を視張つて、問ひ返した。――「うちの兄さん来なかつた?」
「二三日前に、一度来たけれど……」
「それきり?」
「あゝ、何うして?」
「ぢや、矢ツ張り、妾と行き違ひに東京へ行つたんだ! いゝえ、そんなら、それで……」
 百合子は、独りで点頭きながら、窓枠に腰掛けたまゝ靴を脱ぐと――これは、そつちの方へ隠しておいてやれ――と、卓子の下の方へ投げ込んだ。
「僕には、何とも云はなかつたぜ。」
「さうでせう。まあ、いゝわ。」
 百合子は部屋に入ると、滝本が今迄腰掛けてゐた回転椅子に凭つて、
「田舎の春は好いな――妾、昨日から学校が休みになつたので、今朝、帰つて来たのよ、そしたらね――」
 と、至極長閑な調子で、含み笑ひをしながら続けるのであつた。滝本は窓枠に乗つて膝を抱へてゐた。毎日/\、窮屈な思ひばかり続けてゐたせゐか、百合子の明るい態度が眼ぶしいやうであつた。
「只今ツて、お父さんのお部屋へ…

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