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日本橋
にほんばし
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第四巻」 筑摩書房
2002(平成14)年6月20日
初出「時事新報(夕刊)」時事新報社、1931(昭和6)年2月21日~3月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-02-03 / 2016-05-09
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     一

(第一日)快晴――私は八時に起床して、いでたちをとゝのへ、首途の乾杯を挙げ、靴を光らせ、そして妻の腕を執り、口笛の、お江戸日本橋――の吹奏に歩調を合せながら、この武者修業のテープを切つた。麗かな朝陽のなかには、もう春の気合ひが感ぜられる。
 これから旅へ向はうとする気色ばんだ汽関車、終夜の旅を終へて眠りの庫に入らうとする車達の入り乱れた響きを脚下に感じながら八重洲口へ向ふ長い歩廊の窓から、さて私が、これから八日の間、見聞の眼を虎のやうに視張つて訪問する筈の、お江戸日本橋の空と甍を眺めると私の胸は、恰も長い航海の後に見知らぬ国に着いたかのやうにときめいた。私は、予定の如く書店丸善へ先づ赴かなければならないのだ。予定とは? 私は、その店で一部のバースデイ・ブツクを買ふつもりなのである。そして私はこの稿のためにこの街を訪れる限り、そこで出遇つた紳士淑女に、いち/\これを突きつけて、夫々のその栄ある誕生日の日附けの下に親愛なる署名を乞はう――と計画したのである。そして私は、その冊子を記念として永く蓄へ、また、この行程の終つた節に、きらびやかな贈り物をしよう――と、妙な計画をたてたのである。
 だから私は、誰とも言葉を交へぬうちに記念帳を買つてしまはなければならなかつたから、改札口を出るかいなや伴れの者の腕を執つたまゝ傍眼も触れずに丸善へ駆けつけたのである。が、私が、中将湯の前に来かゝつた時である。背後から私の名を呼ぶ者があつた。――見ると、真新しい黒オーバをまとつた銀行員風の若い紳士である。知らぬ人だ。
「やつぱし貴方だつた。私は、電車の中からそれとなく後をつけて来たんだが、お伴れがあるし、それに歩き方と胸の張り具合が何うも貴方らしくなくも思はれたので……」
 など、彼が長い前置をしてゐるうちに、その微笑の度毎に現はれる八重歯で、私は突然少年の彼を思ひ出した。
「やあ、栄吉君!」
 と私は云つた。が、栄吉君! では失敬なことを私は知つてゐる。称ばなければならぬ苗字が思ひ出せぬのである。私は、学生の時分叔父の知合ひから、本石町の裏通りにあつた三原といふ毛糸の輸入商の三階に永く寄食したことがあつた。彼は、その頃の少年店員の一人であつた栄どんである。名前を称ばれる時代と、苗字に移る時には、或る時期が来るとその一日で急に変つてしまふ、そしてその以後若し名前で呼ばれると大きな見識に係はるのだ。その時が来ると急に袂或ひは背広に代つて、姓にさんの敬称をつけて称ばれることになつてゐたが、その規律の正しさに私は感心したことがあるのだ。で私は、
「通勤なんだね、此頃は――。そして、スヰート・ホームは何処に営んでゐるの?」
 と質問した。と彼は、勤め先と住宅が夫々誌してある「小山栄徳」といふ名刺を、鰐皮の名刺入から取り出した。
「小山君、君がそんなに立派になつたと同じやう…

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