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旧聞日本橋
きゅうぶんにほんばし
作品ID4536
副題09 木魚の配偶
09 もくぎょのはいぐう
著者長谷川 時雨
文字遣い新字新仮名
底本 「旧聞日本橋」 岩波文庫、岩波書店
1983(昭和58)年8月16日
入力者門田裕志
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-07-17 / 2014-09-17
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 木魚の顔の老爺さんが、あの額の上に丁字髷をのせて、短い体に黒ちりめんの羽織を着て、大小をさしていた姿も滑稽であったろうが、そういうまた老妻さんも美事な出来栄の人物だった。顔は浜口首相より広く大きな面積をもち、身丈も偉大だった。
 うどの大木という譬はあるが、若いころは知らず、この女はとても味のある、ずば抜けたばかげさを持った無類の好人物だった。
 湯川氏が硫黄にこりだして、山谷を宿とし、幾年か帰らなくなってから、老妻さんはハタと生活にさしせまった。江戸人は瓦解と一口にいうが、その折悲惨だったのは、重に士族とそれに属した有閑階級で、町人――商人や職人はさほどの打撃はなかった。扶持に離れた士族は目なし鳥だった。狡いものには賺され、家禄放還金の公債も捲きあげられ、家財を売り食したり、娘を売ったり、鎗一筋の主が白昼大道に筵を敷いて、その鎗や刀を売ってその日の糧にかえた。
 木魚のおじいさんの奥方も、考えたはてに、戸板をもってきて、その上でおせんべを焼いて売りだした。一文のお客にも、
「まあまあ私のをお求め下さいますのですか。それは誠に有難いことでございます。」
という調子で、丁寧に手をついてお礼をいうのと、深切な焼きかたなので一人では手が廻りきれないほど売れだした。
 あまり皺のない、大きな顔に不似合なほど謙遜した、黒子のような眼で焼き方を吟味し、ものものしい襷がけの、戸板の上の、道ばたのおせんべやの、無愛想なのも愛嬌になったのかも知れない。すると、おなじ難渋をしていた姉娘が一日手伝いに来て見ていて、翌日からすぐ隣りあって、おなじ戸板の店を出した。もうその時は、はじめの縁に、遠州で仲人になった旗本――藤木前の朝散の太夫の子か孫かが婿で、その若い二人組だった。お客がくると、湯川氏の奥方がお辞儀をしているうちに、
「いらっしゃい、こちらが焼けていますよ。」
といったふうに浚ってゆく。客は売れるから焼手をふやしたおなじ店だと思っている。老奥方のお辞儀は段々ふえて、売れ高はグングン減ってゆくが、そんな事に頓着のない老媼は隣店の売行きを感嘆して眺め、ホクホクしていう。
「お前さん方、もっと此方へお出なすったらよい。どうも私の店がお邪魔なようだ。」
 全くお邪魔だといわれたかどうか、とにかく元祖戸板せんべいの店は取りかたづけられた。

 真面目な会話をしている時に、子供心にも、狐につままれたのではないかと、ふと、老媼さんを呆れて見詰めることがあった。
「祖父さんも何時帰りますことかねえ。」
 そこまでがほんとの話で、突然、まつは愁いとみな仰ゃんすけれどもなア――とケロケロと唄いだすのだった。そして小首を傾げて、
「あれはたしか、長唄の汐くみでしたっけかねえ。あの踊りはいいねえ、――相逢傘の末かけて……」
と唄いながら無器用な大きな手を振りだす。私が吃驚していると、その手でひと…

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