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娘煙術師
むすめえんじゅつし
作品ID45395
著者国枝 史郎
文字遣い新字新仮名
底本 「娘煙術師(下)」 国枝史郎伝奇文庫(十五)、講談社
1976(昭和51)年6月12日
「娘煙術師(上)」 国枝史郎伝奇文庫(十四)、講談社
1976(昭和51)年6月12日
初出「朝日新聞」1928(昭和3)年8月26日~1929(昭和4)年2月22日
入力者阿和泉拓
校正者六郷梧三郎
公開 / 更新2010-12-14 / 2014-09-21
長さの目安約 542 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

楽書きをする女

 京都所司代の番士のお長屋の、茶色の土塀へ墨黒々と、楽書きをしている女があった。
 照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものはなしと、歌人によって詠ぜられた、それは弥生の春の夜のことで、京の町々は霞こめて、紗を巻いたように朧であった。
 寝よげに見える東山の、円らの姿は薄墨よりも淡く、霞の奥所にまどろんでおれば、知恩院、聖護院、勧修寺あたりの、寺々の僧侶たちも稚子たちも、安らかにまどろんでいることであろう。鴨の流れは水音もなく、河原の小石を洗いながら、南に向かって流れていたが、取り忘れられた晒し布が、二筋三筋河原に残って、白く月光を吸っていた。
 祇園の境内では昔ながらの、桜の老木が花を咲かせて、そよろと吹き過ぎる微風につれられ、人に知られず散っていたが、なやましくも艶めかしい眺めであった。
 更けまさっても賑やかであると、いいつたえられている春の夜ではあったが、しかし丑満を過ごした今は、大路にも小路にも人影がまばらで、足の音さえもまれまれである。
 二条のお城を中心にして、東御奉行所や西御奉行所や、所司代などのいかめしい官衙を、ひとまとめにしているこの一画は、わけても往来の人影がなくて、寂しいまでに静かであった。
 と、拍子木の音がしたが、非常を警めているのでもあろう。丸太町あたりと思われる辺から、人をとがめる犬の吠え声が、猛々しくひとしきり聞こえて来たが、拍子木の音の遠のいたころに、これも吠え止めてひっそりとなった。
 一軒のお長屋の土塀を越して、白木蓮の花が空に向かって、馨ばしい香いを吐いている。
くもるとも
なにかうらみん
つき今宵
はれを待つべき
みにしあらねば
 紅色のかった振り袖を着て、髪を島田に取り上げている、まだ十八、九の年ごろの娘が、一軒一軒お長屋の土塀へ、楽書きをして行く文字といえば、このような一首の和歌なのであった。
 京都所司代の役目といえば、禁闕を守衛し、官用を弁理し、京都、奈良、伏見の町奉行を管理し、また訴訟を聴断し、兼ねて寺社の事を総掌する、威権赫々たる役目であって、この時代の所司代は阿部伊予守で、世人に恐れはばかられていた。したがってこれに仕えている、小身者の番士なども、主人の威光を笠に着て、威張り散らしたものであった。
 そういう番士のお長屋の土塀へ、若い女の身空をもって、いかに人目がないとはいえ、楽書きを書いて行こうとは、白痴でなければ狂人でなければならない。
 しかし娘は白痴でもなければ、また狂人でもなさそうであった。書く手に狂いがないばかりか、書かれた文字にも乱れがない。
 こうして同一の一首の和歌を、五軒あまりのお長屋の土塀へ、しだいしだいに書いて行ったが、六軒目のお長屋の土塀の面へ、同じその和歌を書こうとした時に、
「女子よ」と呼ぶ声が背後から聞こえた。
 無言で振り返った娘の眼の前に、一…

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