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F村での春
エフむらでのはる
作品ID45401
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第三巻」 筑摩書房
2002(平成14)年5月20日
初出「女性」プラトン社、1927(大正16)年1月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-08-04 / 2014-09-21
長さの目安約 30 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 夜、眠れないと云つても樽野のは、それだけ昼間熟睡するからなので、神経衰弱といふわけではなかつた。朝寝と宵ツ張りが次第に嵩じて、たゞ昼と夜とが入れ違つてゐた。寝つきの悪さと、朝の目醒め時の不機嫌さでは小さい頃から樽野は、周囲の人達に酷い迷惑をかけ続けて来た。彼の母親は、寝せつけようとすればする程如何しても鎮まらない彼を抱いて、夜更けに屡々海辺をさ迷ひ歩かなければならなかつた。何といふ強情な、煩い赤ん坊なんだらう! と、奥の方で彼の祖父が舌を鳴すのが聞えるからだつた。自殺を覚悟してゐる者と、母は見誤られたことも一度あつたが、それを打ち消す気もしなかつた――と母は云ふ。自分が悲しくなつて幼児を抱いたまゝ砂の上に坐つて途方に暮れてゐたのだから、
「未だ浜などに降りる人は珍らしい、薄ら寒い春先きだつたもの!」
「…………」
「夜更だつたかしら? いや、朝早くだつた! 背中を叩いた人は見知らない浜の者だつた、今だにあの人の顔を覚えてゐる! 暫く背後で様子を窺つてゐたんだつて!」
 青年の樽野が、母から常に昼寝と夜明しを批難される言葉のうちで何よりも堪らなかつたのは、母が自分もテレ臭さうにわらひながら述懐した斯んな挿話だつた。
 彼は、息苦しく退屈な夜の生活ばかりを送つてゐた。その為に、この頃誰よりも辛い思ひを嘗めさせられるのは彼の妻だつた。
「眠くならないうちに出かけませう。」
 斯う云つて彼女は、折々、明方彼の部屋を叩いた。煙草の煙りが一杯だつた。彼は、夜を徹して天井を瞶めてゐたのだ。
「今朝も、とても駄目だよ。」
「また!」と彼女は、小さな洋酒の罎を指差した。
「あゝ、もう眠い!」
 その時刻になつて襲ふ眠気は、これはまた不可抗な力を持つて迫る――彼は、遊び疲れた子供のやうに昏々として眠つてしまふのであつた、お午過ぎまで――そして夜、如何しても眠れなかつた。彼は、孤りの部屋で、苦い顔をして煙草を喫し続けるばかりだつた。彼の思索は、如何したらこの病はしい夜昼を正当に取り返せるだらうか? の一つより他になかつた。
 彼の妻は、彼に、朝の眠気を退けて一日起き通させようと努めるのであつた。堪えられるならば彼は、勿論努めたかつた。
「今朝は酔つてゐないから、出かけて見よう。」
「関はないから、烈しく歩いて御覧な、駈けつこをするつもりよ。」
 彼等は、明けかゝつてゐる海辺に降りた。
「おかげで、あたしは気分が好いわ、時々斯んな早起きをするので――」
 彼女は、今はもう眠りのことより他に何の思慮もなく痴けて脚どりも怪しい夫を目醒すために手をとつて、駈け回つた。彼女は、一枚で来た毛糸の上着を汗で滲ませた。だが、彼の昼間の眠りを一層長引かせた以外に彼女の努力も彼の辛棒も役立なかつた。彼女は、わらひながら涙を滾したことがあつた。
 彼は、寧ろ、種類の差別なく望んだ! が、昼間彼を必要…

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