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陽に酔つた風景
ひかりによったふうけい
作品ID45411
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第三巻」 筑摩書房
2002(平成14)年5月20日
初出「週刊朝日 第十五巻第二十四号」朝日新聞社、1929(昭和4)年6月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-08-14 / 2014-09-21
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 鶴子からの手紙だつたので彼は、勇んでY村行の軽便鉄道に乗つた。勇んで――さうだ、彼は、ちよつと自分の姿を傍から眺めて見ると、あまり勇みたち過ぎてゐる自分が癪に触るほどだつた。
 何とまあ自分は気の毒な慌て者だつたことだらう――彼は辛うじて間に合つた汽車の窓に腕をのせて、真盛りの莱畑を眺めながら、あんな手紙位ゐでこんなにも一個の人間が有頂天になるものか! などゝいふ風なことを自分に対して何といふこともなしに皮肉に考へたりしたが、そんな想ひは窓先を寄切る白い花片のやうに一瞬の間に消え去せて、凄じい車輪の響が、そのまゝ凄じく彼の胸で歓喜の響を挙げてゐるだけだつた。
 この汽車の時間に間に合せるまでの彼の騒ぎといつたらなかつた。はじめは学校の制服で出かけたのだつたが、不図思ひ直すと、彼は大いそぎで、とつて返して、新しい春の背広服に着換へたりしたのである。腕時計を見ると、この汽車に十分しか間がなかつた! 彼は、ワイシヤツ一枚で、上着を抱へたまゝ外へ飛び出すと、靴音荒く奔馬のやうにポンポンと走つて停車場に駆け込んだのだつた。そして、笛が鳴つて、徐ろに滑り出した車に鳥のやうに飛び乗つたのである。
 菜畑の向ふには海が青々と晴れ渡つてゐた。走つてゐるのか、滞つてゐるのか、何うしても見境のつかない小舟が点々として落葉のやうに青海原に散つてゐた。崖道に添うて走つてゐる汽車が、曲り角に出会ふ度ごとに景気のよい汽笛を挙げると、菜畑の中から小鳥が飛びたつのが見えた。それほどこの汽車は崖道になればなるほど歩みがのろくなるのであつた。この汽車は、曲り角や急勾配に来るとしば/\脱線するのが珍らしくなかつた。車が脱線すると、車掌が凡そ狼狽の気色のない調子で車中の客に向つて、皆さん、どうぞ、ちよいとお降りを願ひます、陽気の加減かまた/\車が脱れました――こんなに長閑な天気の日だと、車掌はこんな冗談などをいつたりするのであつた。そして、機関手と火夫と車掌と、そしてこんな場合には屹度一人の義侠心を持つた客が現はれるに決つてゐる――四人が力を合せて、車体をおすと、一息で脱線は治つてしまふのである。十人乗れば満員の札を掲げる汽車だつたから――。
 春の休みで帰つてゐるのなら何故鶴子はもつと早く知らせて寄こさなかつたのだらう? 今日から鎮守様のお祭だから遊びに来ませんか? なんて、何と白々しい、巧な、意地悪な、礼儀正しさだらう……。
 あんな手紙に憾みごとを述べてやらう! などゝ彼は思つた。何も彼も、彼は、甘く、切なく、嬉しかつた。
「帰つたら直ぐに手紙をくれるといふ約束で、わざと僕達は別々に帰つて来たんぢやないか!」と、軽く不平さうな顔を示してやらなければならない――などゝ彼は思ふのであつた。
「僕は、お祭なんかに招ばれたくはなかつたのに――」
「だつて、あなただつてお手紙をくれなかつたぢやな…

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