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毒気
どくけ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第二巻」 筑摩書房
2002(平成14)年3月24日
初出「中央公論 第四十一巻第一号(新年号)」中央公論社、1926(大正15)年1月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-06-20 / 2014-09-21
長さの目安約 76 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



「傍の者までがいらいらして来る。」
 私が、毎日あまりに所在なく退屈さうに碌々としてゐるので、母も、相当の迷惑をおしかくしながら、私のために気の毒がるやうにそんなことを云つた。――「折角、みんなと一処に来てゐるのにね。」
「えゝ、だけど別段、――別段、どうもね、これと云つて……せめて海でもおだやかになつて呉れると好いんだがな。」と、私はぼんやり天井を視詰めたまゝ呟いだ。
「何んのために来たのだか、解りはしないね、これぢや――」
 私達が、何か少しでも保養のためを持つて来てゐるんだ、といふやうに思つてゐる母は、私の所在なげな様子を嗤ふやうに云つた。三月に、私達は父の一周忌の法要の為に戻つて以来のことである。一時あんなに仲の悪かつた母と周子が、今度は何となく表面打ち溶けてゐるのには私は、安易に思つた。私が、間に立つて彼女達から夫々相手のことを告げられるといふやうな不快さもなくなつてゐた。――まつたく何の用事も持たずに私が、周子と汽車に乗つたのは今度が初めてだつた。
 私の幼児の栄一には、私の母が何時の間にか好き祖母になつてゐた。だが私は、彼が時々大声をあげて
「おばアちやん!」と叫ぶと、奇妙に五体が縮む思ひに打たれた。そして、何となく母に気遅れを感じた。尤も私は、これに似た感情は嘗て父の場合にも経験した。栄一が生れた当座、吾家の者は殆ど口にはしなかつたが他家の人が来て、
「ホラ/\、これがお前のお爺さん!」などと云つて、赤児をその祖父の鼻先きにつきつけてゐるのを見ると、蔭で私は独りで酷くテレ臭い思ひに打たれた。何となく父に気の毒なやうな気がした。――今度も、それと殆ど同じ感情ではあつたが心の底に何か澄まぬ鬱屈があつてならなかつた。前には、簡単に説明(?)することも出来たものが、今度は何か回り道でもしないと、滅入り込んでしまひさうな弱さに囚はれてゐた。幼児のことは例に過ぎない、この頃の日増に鈍さが増して行くらしい自分の感情が、家族の者などを思ふ場合などに――。
 斯んなことを云ふと、私が何か忠実な家族の一員で、世俗的な何かの負担でも感じてゐる(自分ではそんな風に自惚れることもあつたが)やうだが、私のこの他人に迷惑を及ぼす程の怠惰性は生来なのである。――この頃、私は、その内容に何か理由あり気なものを蔵してゞもゐるといふ風に考へるのは、自分に対する一種の虚飾的方便に過ぎなかつたらしい。この程度の鬱屈さならば私は、子供の時分から繰り反してゐる筈だつた。
 母と、十五歳になる弟と、妻と、長男の栄一と、そして年齢だけはとうに成年に達してゐる自分と――。
 私は、時々何も思ふことがなくなるとそんな風に僅かな自家の同人の数を算へたりした。――五人である。そして私は、自分の彼等に対する所謂「親情」が、斯んな風に技巧的に考へて見ると、程度の別こそなかつたが、夫々何となく形ちが…

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