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父の百ヶ日前後
ちちのひゃっかにちぜんご
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第二巻」 筑摩書房
2002(平成14)年3月24日
初出「中央公論 第三十九巻第十一号」中央公論社、1924(大正13)年10月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-05-21 / 2014-09-21
長さの目安約 51 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 彼が、単独で清友亭を訪れたのはそれが始めてだつた。――五月の昼日仲だつた。
「先に断つておくがね、僕今日は用事で来たんぢやないよ。……芸者をよんで、そして僕を遊ばせて呉れ。」
 彼は、玄関に突ツ立つて、仏頂面でそんな言訳をした。彼の姿を見ると、女将は眼を伏せて、黙つて頭をさげた。それで彼は、一寸胸が迫つたので、慌てゝそんな気分をごまかす為に、決して云ひたくはなかつたのだが、強ひて晴々と笑つて、
「僕だつて、斯うなれば時には独りの遊びをしたいからなア!」などゝ妙な声を張りあげて呟いだ。――斯うなれば……その言葉がもう胸にセンチメンタルな響きを残した。
 清友亭は、彼には慣れた家だつた。地震で潰れたり焼けたりしない前の半年位の間、続けて来た日もあつたのだから、殆ど一晩おき位ひに此処へ来たのだつた、と云つても誇張にはなるまい。父親がお蝶といふ女と親しくなり、そして父親の事業の相談が忙しく東京などからお客が多かつたのだ。母が嫉妬深くて夜十二時近くなると、屹と彼を清友亭に差し向けた。母と彼と一処に乗り込んで、父の顔を赤くさせたことも度々あつた。
「旦那の百ヶ日は、もうあさつてなんですつてね。早いこと……」
 女将は、何となく手持ぶさたらしく、窓に腰かけた彼を手をとるやうにして正座に落つかせた。
「よくあさつてだなんて知つてるね。僕はおとゝひ迄そんなことを忘れてゐた。」
 いくら慣れてゐる清友亭だつたにしろ、彼は自分が主になつて然も独りで斯ういふ処に来たことはなかつたので、眼の据え処にさへ迷つた。彼は、食卓を前にして、痩躯を延して、かしこまつてゐた。
「忘れる人はありません。――それに昨日お宅から通知がありました。」
「何の通知?」
「御招待――」
「こゝに、はゝア! 阿母かしら?」
 問ひ返すまでもなく彼は、心にその通りに思つたのだが、軽く空とぼけた。彼はそんな風に、わざとらしい淡々さを装ふのが癖だつた。そして、
「奥様は仲々気のつくお方ですよ。」などゝ女将の口からカラお世辞を云はせたのは、寧ろ彼の猿智慧だつた。そんな馬鹿な心を動かせてゐるうちに、彼は、はつきり親身の者の姿が個立して描けるやうな気がするのだつた。
 憐れな母親だ――彼は、さう思つて、如何にも自分には冷い観照眼があるものゝやうに思ひ違へて、イヽ気な迷想に耽つた。
「うちの阿母は、随分可笑しな人だね。道徳を説くのは好いが、悲しい哉、彼女は嫉妬心が強い、悴――即ち吾輩の前に馬脚を現し……」
「もう済んだことです。」女将は彼を、叱るやうにさへぎつた。女将は、彼の心根の安ツぽさを見極めてゐた。
「僕、今日は独りでのうのうと酔ふんだ。」
「これからは、あなたが当主なんですからね、しつかりしなければいけませんよ、少しはお母さんの心にもなつてあげなくては……」
「さういふ評判だつてね、親父が亡くなつて以来、家…

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