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せみ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第二巻」 筑摩書房
2002(平成14)年3月24日
初出「新潮 第四十一巻第五号」新潮社、1924(大正13)年11月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-06-16 / 2014-09-21
長さの目安約 34 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

「あたしは酔ツぱらひには慣れてゐるから夜がどんなに遅くならうと、どんなにあなたが騒がうと今更何とも思はないが――」
 周子は、そんな前置きをした後に夫の滝野に詰つた。
 田舎で暮してゐた時とは、境遇も違ふし場所柄も違ふ、今ではこのセヽこましい東京の街中で、然も間借りをしてゐる境涯である、壁一重先きには他人が住んでゐるのだ、毎晩/\夜中も関はず大声を発して、加けにどたばたとあばれられたりしては、朝になつて隣りの人に挨拶をすることも出来やしない、まるで狂ひの沙汰だ……。
「それが、たゞの喧ましさとは違ふぢやありませんか、歌をうたふならせめて他人に聞かれても恥しくないやうな歌をうたひなさい。あなたゞつてもう学生ではないぢやありませんか、隣りのマンドリンが煩いなんてよくも図々しく云へたものだ、何処にお酒を飲みに行つたつて屹度鼻つまみに違ひない、几帳面の唄となつたら春雨ひとつ知らないでせう。」
 周子は、あゝと深い溜息をついた。
 滝野は、身動きもせず凝つと煙草を喫してゐるばかしだつた。そして小声で、
「ゆうべも酷かつたかね。」と訊ねた。
「ほんとうにあなた、何かお習ひなさいよ、ちやんと纏つた芸を――」
「何が好いだらう、長唄でも……」
「声が悪いから、それもね……」さう云つて周子は、苦笑を浮べた。
「ゆうべはどんなに騒いだ。」
 独りだつたから大して酔つたわけでもなく大体覚えてゐたが、馬鹿/\しくて知つてる振りも出来なかつたので滝野は、狡くそんな退儀な質問を発した。――そして若し周子が、実際以上に少しでも誇張したら、軽蔑してやらうなどと思つたりした。
「いつもの通りよ。」周子は煩さゝうに云つたばかりだつた。
「いつもの通りとは、何ういふことだ、はつきり云つたら好いだらう。」
「都の西北――を何辺やつたことでせう。」
 都の西北、といふのは滝野が四五年前、それも落第を重ねた後に漸く末席をもつて卒業した或る私立大学の校歌のことだつた。
「それから、野球の応援歌!」
「それをやつては恥かね。」
「恥ですよ。」周子は疳癪を起して、金切り声で叫んだ。――滝野は、隣りに聞えるから止めろといふ意味を眼つきに表して、女のヒステリツクの発作を制御した。
「チエツ! 昼間になつていくら遠慮深くしたつて何になるものですか。」
「そんならもう止さうよ。」と滝野もムツとして、横を向いてうなつた。
「救かるわ!」
「誰がやるものか。」
「断言しましたね。」
「無論だア。」滝野は、ちよつと亢奮すると田舎なまりの語尾になるのが常だつた。
「ぢや今度から、酔つた時は何をやるの? いくら口惜しくつたつて、あれより他のことは出来ないでせう!」
「余計なお世話だい。」
 滝野は、唇を噛んでゐた。何か他に出来ることがあるかしら? とちよつとムキになつて考へて見たが、何の思ひあたるところのある筈はなかつた。

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