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明るく・暗く
あかるく・くらく
作品ID45436
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第二巻」 筑摩書房
2002(平成14)年3月24日
初出「婦人公論」中央公論社、1924(大正13)年11月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-03-26 / 2014-09-21
長さの目安約 29 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 天井の隅に、小さい四角な陽がひとつ、炎ゆるやうにキラキラと光つてゐた。湯槽の上の明りとりから射し込んだ陽が、反対の壁にかゝつてゐる鏡に当つて、其処に反映してゐるのだつた。
 純吉は、先程から湯槽に仰向けに浸つて、悠々と胸を拡く延しながら、ぼんやりとその小さな陽を眺めてゐた。――快い朝だ、と彼は沁々と思つた。……帰省して以来間もなく一ト月にもなつたが、その間、何といふ懶い日ばかりが続いたことだらう。
 秘かに想ひを寄せてゐた照子は、勝ち誇つたやうに嫁いてしまつたし――加けに高を括つてゐた学校は落第してしまつたし、……。
 そんなことを思ふと口先だけでは勢ひの好い虚勢ばかりを張つてゐるものゝ内心は至つて臆病な彼は、折角の若い日も滅茶苦茶になつてしまつた気がして、暗然とした。これが動機となつて意固地な運命は何処まで暗い行手を拡げることだらう……転々と、底の知れぬ程深い谷底へ、足場もなく転げ落ちて行く一個のごろた石に、われと自らを例へずには居られなかつたのだ。
 純吉は、湯槽の中で思ふ様四肢を延して、朝の陽を仰いだ。前の晩、卑しい妄想に病まされて到々明方までまんじりともしなかつた。夜が明けて救はれた気がした。湯をわかすことを命じてから暫くうと/\した。厭な夢ばかり見続けた。起された時は、夏の朝らしい爽々しい陽が庭に一杯満ち溢れてゐた。彼は夢中で湯槽へ飛び込んで、吻ツと胸を撫で降した気になつたのだ。
 純吉は、大きな声で女中を呼んだ。
「煙草を喫ふんだから、一本つけて来て呉れ。」
 純吉は、湯の中に仰向けの儘煙草を銜えて、悠々と喫し始めた。静かな朝だつた。煙りはゆらゆらと立ち昇つて、天井に延びた。
「おい/\。」廊下から宮部が騒々しく純吉を呼んだ。「何時まで湯に浸つてゐるんだい、稀に朝起きをしたと思へば! 居眠りでもしてゐるんぢやないのか?」
「あゝ煩いなア!」純吉は、さう呟くとさもさも迷惑さうに顔を顰めた。「もう浜から帰つて来たのか? チヨツ!」
「未だ寒くつて海へは入れなかつたよ。加藤と木村がこれからスケートへ行かうツてさ。」
「厭だ/\。」と純吉は首を振つた。(スケートといふのはローラー・スケートのことである。それが流行した頃だつた。)
「厭もないもんだ。昨夜はどうだい、あんなに面白がりやがつた癖に……」
 そこに加藤も出て来て「昨夜は純公の評判が一等素晴しかつたなア。お百合さんは貴様に確かに秋波を送つたぜ、なア宮部?」
「昼間になると変に気分家面なんてしてゐる癖に、塚田へ行くとイヽ気なものだ。」
 塚田の画室をスケート場にしてゐたのだ。百合子は塚田の従妹である。
「ほんたうか?」純吉は、からかはれたことを打忘れて仰山に湯槽から飛びあがつた。
「だが駄目だよ、これからは海が始まるんだからな、泳ぎなら俺様が大将だからね。」と加藤はふざけて胸を張り出した。「…

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