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「悪」の同意語
「イーヴル」のシノニムス
作品ID45437
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第二巻」 筑摩書房
2002(平成14)年3月24日
初出「中央公論 第四十巻第四号(春季大附録号)」中央公論社、1925(大正14)年4月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-03-26 / 2014-09-21
長さの目安約 81 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 小田原から静岡へ去つて、そこで雛妓のお光とたつた二人だけで小さな芸妓屋を始めたといふ話のお蝶を訪ねよう――さう思ふことゝ、米国ボストンのFに、最近の自分の消息を知らせなければならないこと――。
 この二つのことだけは、近頃彼が、自ら例へて冬籠りの地虫の心になつてゐる因循な頭に、いくらかの積極性を与へた。母や清親などゝ野蛮な争ひをした揚句、その儘周子と三歳の英一を伴れて東京へ来てしまつた彼だつた。
 だが彼は、父が生きてゐた頃も母とは幾度も争ひはしたことがあるので、今度だつてそんなことでは憂鬱を感ずるどころではなかつた。母などとは、あんな騒ぎは忘れた顔をして、顔もあからめずに会へる気がした。苦い発作的の感情に、一時はカツとして向ツ肚をたてるが、根が安価な心の持主である彼だつたから、一瞬時後には呆然たる魚のやうにピツカリと洞ろな眼を挙げてゐるばかりだつた。恬淡ではない、狡くて、光りを知らない痴呆性に富んだ男に違ひないのだ。
 いつもの通り彼は、午過ぎまで寝床の中に縮んで、痴想に耽つてゐた。
「もう、そろそろほとぼりも冷めた時分だらうから、小田原へも行つて見ようかな? 阿母がいくら頑張つたつて、親父の生きてゐる時分とはわけが違ふんだからなア!」
 彼は、上向けに寝て図太く冷い微笑を浮べてゐた。
「ひとつ、威厳を取り戻して来てやらうか……」
 悠々と彼は、煙草を喫した。襖が立て切つてあつたから、煙りは静かに天井まで延びて行つた。――(平気なものだ、何と落ちつき払つてゐることだらう。)
 彼は、一杯含んだ煙りを、大きく口をあけてハア、ハア、と吐き出しながら漠然と胸の拡がる思ひに打たれたが、ふつと醒めて煙りの中に清親や母の姿をはつきり感ずると、忽ち胸は冷汗に充たされてしまつた。
 口先きだけは花々しかつたが、一たまりもなく腕力家の清親にねぢ伏せられてしまつたぢやアないか――彼は、思はず自分の額をピシヤリと平手で叩いた。そして、痩ツぽちの癖に、袴を腹の下に絞め、襟をはだけて、奇妙に太い作り声を挙げて豪放を構えてゐた自分が、清親の腕につかまれると、藁人形のやうに軽々と撮み出されてしまつた光景を回想して、彼は、陰鬱に顔を歪めて、深く蒲団の中へもぐつてしまつた。――彼は、堪らない溜息を吐いた。
 そんな幻は払ひ落さうとして、彼は、首を振つたり、肚に力を込めたりして躍気になつたが、相手の横意地の方が強かつた。……彼は、映画に写つた己れの姿を、否応なく見せられなければならなかつた。
「礼儀を弁へぬにも程がある。」と、母の乾いた唇が細かく震へながら呟いだ。
「青二才の酔ツ払ひなんぞは……」と、それでもいくらか息を切らせた清親が、静かに盃を取りあげて、笑つた。「チヨツ! それにしても意久地のない男だな。」
「もつと酷い目に合せてやれば、よかつたんです、小面の憎い。」と母も苦笑し…

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