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桃のある風景
もものあるふうけい
作品ID4544
著者岡本 かの子
文字遣い新字新仮名
底本 「愛よ、愛」 パサージュ叢書、メタローグ
1999(平成11)年5月8日
初出「文藝」1937(昭和12)年4月号
入力者門田裕志
校正者土屋隆
公開 / 更新2004-04-27 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 食欲でもないし、情欲でもない。肉体的とも精神的とも分野をつき止めにくいあこがれが、低気圧の渦のように、自分の喉頭のうしろの辺に鬱して来て、しっきりなしに自分に渇きを覚えさせた。私は娘で、東京端れの親の家の茶室作りの中二階に住んでいた頃である。私は赤い帯を、こま結びにしたまま寝たり起きたりして、この不満が何処から来たものか、どうしたら癒されるかと、うつらうつら持て扱っていた。
 人が、もしこれを性の欲望に関する変態のものだったろうと言うなら、或はそうかも知れないと答えよう。丁度、年頃もその説を当嵌めるに妥当である。しかし、私はそう答えながら、ものごとを片付けるなら一番あとにして下さいと頼む。それほど私には、片付けられるまでの途中の肌質のこまかい悩ましさが懐かしく大事なのだから。
 母は単純に病気だということに決めてしまって、私の変った症状に興味を持って介抱した。「お欠餅を焼いて、熱い香煎のお湯へ入れてあげるから、それを食べてご覧よ。きっと、そこへしこってる気持がほごれるよ。」「沈丁花の花の干したのをお風呂へ入れてあげるから入りなさい。そりゃいい匂いで気が散じるから。」母は話さなかったが、恐らく母が娘時代に罹った気鬱症には、これ等が利いたのであろう。
 色、聞、香、味、触の五感覚の中で、母は意識しないが、特に嗅覚を中心に味覚と触覚に彼女の気鬱症は喘きを持ったらしいことが、私に勧める食餌の種類で判った。私もそれを好まぬことはなかった。しかし、一度にもっと渾然として而も純粋で爽かな充足を欲した。「もっと、とっぷりと浸かるような飲ものはない?」「しとしとと、こう手で触れるような音曲が聴き度いなあ。」母は遂々、匙を投げた。
「男持ちの蝙蝠傘を出して下さい。」「草履を出して下さい。」「河を渡って桃を見に行くから。」私は必ずしも、男性に餓えているというわけではなかった。渡しを渡った向岸の茶店の傍にはこの頃毎日のように街の中心から私を尋ねて来る途中、画架を立てて少時、河岸の写生をしている画学生がいる。この美少年は不良を衒っているが根が都会っ子のお人好しだった。
 私は彼を後に夫にするほどだから、かなり好いてはいた。けれども、自分のその当時の欲求に照して、彼は一部分の対象でしかないのが、彼に対して憐れに気の毒であった。
 茶店の床几で鼠色羽二重の襦袢の襟をした粗い久留米絣の美少年の姿が、ちらりと動く。今日は彼は茶店の卓で酒を呑んでいるのだ。私は手を振って、尾いて来ちゃいけないと合図すると、彼は笑って素直に再び酒を呑み出した。私は堤を伝って川上の方へ歩いて行った。
 長い堤には人がいなくて、川普請の蛇籠を作る石だの竹だのが散らばっていた。私は寒いとも思わないのに岸に繋いである筏の傍には焚火が煙りを立てていた。すべてのものは濡れ色をしていた。白い煙さえも液体に見えて立騰っていた。…

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